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130:涼宮ハルヒの微笑

2009/07/13 (Mon) 20:39
プ ロ ロ ー グ


俺たちの高校生活最後の冬。

俺とハルヒの意地の張り合いがもたらした、二度目の世界崩壊の危機。
そうだ。俺が弾を装填し、ハルヒが引き金を引いた、全宇宙を一方的に巻き込んだあの大事件。
あれから既に長い歳月が過ぎているというのに、今思い起こしても平常心ではいられなくなる。関係各位には、誠に申し訳ないことをしたという気持ちでいっぱいだ。

未来の機密組織がハルヒを抹消しようと潜入してきた、その中に自称涼宮ハルヒの子孫がいたが結局、改心したらしく計画は見事中止になった、まぁその後SOS団の準団員って形で学校に留まってたがな。
しかしこれはハルヒにとってただの演習ぐらいにしかすぎなかったと思う。その後

全宇宙規模で発生した閉鎖空間。その内部では、ハルヒを知る存在たちが一堂に会し、好意的に見ればそれは、ハルヒ杯争奪全宇宙オールスター対抗大運動会(強制参加型)とも言うべき様相を呈していた。

 閉鎖空間内では、現状維持派と急進革新派とのあいだで様々な思惑が入り乱れ、熾烈な戦いが繰り広げられた。
情報制御すらままならず物理的攻撃が不可能な敵対的広域帯宇宙存在たちは、以前の雪山のような方法でSOS団への精神的攻撃を試み、未来を予測可能である敵対未来人組織たちは、俺たちを内部分裂させるべくハルヒと俺に対してあらゆる工作活動をおこない、閉鎖空間内でその力を存分に振るえる敵対的超能力者たちは、赤い光となって俺たちに攻撃を仕掛けてきた。

 長門は制限を余儀なくされた能力をなんとか駆使して抗戦し、朝比奈さん(大)が未来人の知識をもって俺たちに助言を与え、朝比奈さん(小)はおろおろしつつも時間移動を応用した空間移動と長門によって解禁されたフォトンレーザーやら超振動性分子カッターやらの超科学的兵器で俺たちを何度も危機から救い、そして古泉はその能力を遺憾なく発揮して敵対勢力の物理的攻撃に対抗した。

 当然の反応として、この超常的展開に一人狂喜するハルヒは、以前俺が見たものよりも質、量ともはるかにパワーアップされた神人軍団を無意識的に生み出し、敵対勢力を次々となぎ倒しはじめた。
だが神人の活躍もむなしく、一人また一人と倒れてゆくSOS団員。
そうしてハルヒはついに、これが自分の望む世界の在り様ではないことを受け入れた。

閉鎖空間の終焉は、やはりというべきか、俺とハルヒのキスによるものだった。
以前のような、成り行きまかせのものでも一方的なものでもない。

俺たちはこの騒動のおかげで、お互いに対する気持ちを確かめ合うことが出来た。

俺の場合は、なによりも俺自身の想いをはっきりと認識し、覚悟することになったわけだが。一度目と同じ、あのグラウンドで、俺たちは永遠とも思えるほどの長い時間を共有していた。

唇を重ね合わせ、お互いをしっかりと抱き寄せて。

絶対にこの手を離したくないと思った。
ハルヒだってそう思っていたはずだ。

俺は、本当に心から時間が止まって欲しいと感じていた。

世界が変わったとさえ思える瞬間だった。

いつしか閉鎖空間は消滅し、俺はまた自室で目覚めた。

今回はベッドから転げ落ちることもなかった。
フロイト先生もきっと祝福してくれていたに違いない。
その後、立て続けに携帯が鳴った。

 最初の電話は長門からだった。
「六年前の涼宮ハルヒによる情報爆発、それを超える二度目の情報爆発が観測された。それと同時に、情報統合思念体は自律進化の糸口を得た。情報統合思念体主流派は、あなたと涼宮ハルヒに感謝している」
と、いつもの淡々とした口調でそれだけを述べ、ぷつりと電話は切れた。
なんてことだ。それはあのキスが原因なのか? 

まさかそんな大それたことが起こっていたとは。
ところで長門、お前自身は感謝してくれないのか?

長門の電話が切れるなり、続けざまに古泉から連絡があった。
「機関の方がかなり混乱していまして、手短にお話しします。僕の能力が消滅しました。ですが、これはむしろ喜ばしい状況と言えます。我々の能力の消滅と同時に、涼宮さんが二度と閉鎖空間を生み出さず、世界も改変しないという確証を得ました。なぜ解るのかと言うと、残念ながら説明出来ません。解ってしまうのだからしょうがない、としか。僕のアルバイトがなくなってしまうのは少々寂しいですが、これで世界が永遠に救われたと思えば、それもまたよしです」
その口調の端々に本心からの喜びがうかがえた。

どうやら、キスの瞬間に感じたことは事実だったようだ。

本当に世界は大きくその様相を変化させてしまったのだ。本来あるべき姿に。
それから数分後、最後は予想どおり朝比奈さんからの電話が鳴った。

「キョ、キョ、キョン君っ!」
明らかに混乱していた。当然ながら、俺には朝比奈さんが次に何を言うのか想像出来る。
「すすす涼宮さんからの、じじ時空振動が、けけ検出されなくなりましたっ!」
「朝比奈さん、解りましたからとにかく落ち着いてください」
電話口からゆっくりとした深呼吸が数回聞こえた。落ち着きを取り戻した朝比奈さんは、

「涼宮さんに関係する時空の不確定要素が消滅しました。つまり未来が確定されました」
そして、少なからず寂しそうな声で、
「私の役目もこれで終わっちゃいました。名残惜しいですが、もうすぐお別れのときがくると思います」
そうか。ついに朝比奈さんともお別れなのか。

あなたのお茶が飲めなくなるかと思うと、俺も本当に寂しいですよ。

このようにして、唐突に始まった涼宮ハルヒを取り巻くありとあらゆる不思議な現象は、唐突に終わりを告げたのだった。

そう思っていた。これが実は終わりなどではなく、本当の意味で全ての始まりになることなど、当時の俺には全く想像出来ないことだった。



第 一 章


あれから四年。
俺は無事に大学を卒業し、既に就職していた。いわゆる社会人というやつだ。
ハルヒによる補習授業のおかげで、俺はなんとか大学に進学する学力を身につけ、苦労の末に無事卒業することが出来たのだ。
ハルヒは俺とは別の大学に入学し、首席に近い成績で卒業。さらに世界を盛り上げるための活動をするとやらで、大学院に進んでいる。
世界を盛り上げるなんていう発言は以前と変わらないハルヒらしさだ。ハルヒは自分が不幸を感じているときは周りの人間を否応なく道連れにし、自分が幸福を感じているときはそれを無条件で周囲に拡散させていく、そういう奴だ。
そして、俺はそういうハルヒにますます惹かれていたのだった。

長門と朝比奈さんとは、高校卒業以来会っていない。
卒業式の後、部室で盛大かつ壮絶たるSOS団解散式兼お別れパーティーが開かれ、朝比奈さん、鶴屋さんを含む六人でバカ騒ぎをした。
その後いつものルートで最後となる集団下校をし、長門とは駅前で別れた。
肌寒さの残る、うす曇りの夕暮れ。
「あなたがいてよかった」
別れ際、長門が俺にだけ聞こえる声で言った。
いつもの無表情には違いなかったが、長門が感情を押し殺している風に感じられた。
長門も密かにSOS団との別れを惜しんでいるのだろう。
長門、情報統合思念体に戻っても幸せに暮らしてくれよ。お前は情報統合思念対の中でも先駆者だ。なにしろお前はハルヒに散々振り回されたおかげで、元々の機能にはない感情ってものを獲得したんだからな。仲間に自慢出来るぞ。絶対にな。
「さようなら」
「じゃあな、長門。元気でな」

別れは辛いが、これは仕方がない。結局のところ長門を含む情報統合思念体は切望していた自律進化のきっかけを手に入れ、朝比奈さんたち未来人は約束された未来を手に入れ、、古泉の機関は神人に悩まされることのない安息な日々を手にいれたのだ。
そして長門は情報統合思念体に戻り、朝比奈さんは未来に戻り、古泉は本来の生活に戻る。
つまりは全てハッピーエンドだ。これで別れを惜しんでいてはバチが当たる。
長門の後姿を見送りながら俺はそんなことを考えていた。

卒業式からしばらく経った後、朝比奈さんから手紙が来た。
『会ってお別れするのは辛いので、お手紙を書くことにしました。
キョン君には本当にお世話になりました。今までありがとうございました。
もっと色々書きたいことがありましたが、書くともっと辛くなりそうなので。
これからもお元気で。涼宮さんとお幸せに。
朝比奈みくる』
いつものファンシーなものではなく、やけに体裁の整った封筒と便箋が、本当の別れを実感させた。
お世話になりましたなんてとんでもない。俺こそ朝比奈さんには本当にお世話になりました。
高校生活の日々、朝比奈さんは俺にどれだけ心の安らぎを与えてくださったことか。
でもいずれまた再会する日が来ますよ。未来の朝比奈さんはこの後何度か過去の俺に会うことになるんです。既定事項ですから。
俺がこれから先、朝比奈さんに会うことが出来るのかどうかは解らないが。
以前から覚悟していたものの、かぐや姫の物語がいざ現実になると、やはり寂しいものだった。
朝比奈さんに直接お別れの言葉が言えなかったのを口惜しく思う。
朝比奈さん、どうか未来の世界でお幸せに。未来人組織での立場向上だけでなく、この世界では出来なかった恋愛もがんばってください。
あなたなら自らがんばらずとも、男共が黙っていないでしょうけどね。未来でもきっと。

ちなみに、古泉とは高校卒業後も友人づきあいがある。
俺たち二人は、常人のそれをはるかに上回る過酷な高校生活を共に乗り切った、いわば戦友のようなものだ。
以前古泉が言った、対等な友人同士として昔話を笑って話せる日は今ここに実現している。
古泉の言動がそれまでと変わったことについて、ハルヒも俺も最初は驚いたが、正直なところすぐに慣れた。
二人とも、何の含みもなく屈託なく笑う古泉に以前よりはるかに好感を抱いていた。
機関は古泉の卒業と同時に解散されていた。もはや機関がすべきことは何も残されていなかったからな。


俺が就職して三ヶ月と少しが経った頃、七夕の日に俺とハルヒは結婚した。
「どうせこのままずっと一緒にいるんだから、もう結婚しちゃっていいじゃない。こういうこ
とは早いほうがいいのよ」
ハルヒがそう提案し、俺もそれに同意したからだ。プロポーズくらい俺にやらせて欲しかったな。まあ似たようなセリフはあの閉鎖空間の中で既に言ってあったんだが。
就職して間もなかった俺は、そのため貯金などほとんどなく、ハルヒも学費を出してもらっている身分で大層な披露宴など気が引けるという理由で――そういう控え目な考え方をするハルヒは高校生の頃からは到底考えられないのだが――、披露宴はお互いの親戚だけを集めた食事会ということにした。
無論、古泉と鶴屋さんを交えた四人のパーティーは盛大にやったけどな。
長門と朝比奈さんには当然ながらこちらから連絡をつけることは出来なかった。二人とも俺たちが結婚することを知らなかったのか、あるいは知っていたとしても参加出来ない事情があったのだろう。
この頃にもなると、ハルヒはすっかり一般的な性格と生活を獲得していた。
エキセントリックな振る舞いは多少残っていたが、それはあくまで一般的という範疇に収まるものだった。

古泉が言ったとおり、ハルヒは二度目の情報爆発の際に、以前の能力を完全に失ったようだった。

情報爆発以降も時々不機嫌になることはあったが、古泉が断言したとおり閉鎖空間を生み出すことはなくなったようだ。古泉の能力が消えても世界が破滅していないのがなによりの証拠だ。
こうして平凡でありながらも、幸せな日々は続いた。
俺の社会人生活は、慣れない仕事に苦戦しながらも、まずまずの滑り出しだったと言える。
ハルヒの学生生活は言うまでもなく極めて順調だった。
このまま平穏無事に暮らせたなら、俺はどれだけ心安らかだっただろう。
だが、何者かがそれを許してはくれなかった。

ハルヒは結婚の二ヶ月後、突然学校で倒れたのだ。
仕事場に連絡を貰った俺はすぐさま病院に直行した。入院先は、例の機関御用達の総合病院。
古泉が昔のよしみで手配してくれた。
「昼ご飯食べてるときになんだか急に意識が遠のいちゃって。全くみっともない話だわ」
ハルヒがそう言うのを聞いて、俺は安心した。
「全くだ。お前らしくもないな。元気だけが取り柄、ってわけでもないが、お前が病気で倒れるなんて見たことねーからな」
ベッドの上のハルヒは、見るからにいつものハルヒそのままだった。軽い貧血か何かで倒れたんだろう、という程度にしか考えなかった。
症状は大したことはないが検査のため今日は様子を見て入院させる、と言う医師の言葉にも、不自然さは感じるにせよ、俺はちっとも心配などしていなかった。
だからハルヒが翌日再び病室で意識を失ったと聞いたとき、ようやく俺はこれがただ事ではないということに気づかされた。
「昨日から今朝にかけて一通りの検査をしてみましたが、結論から申し上げますと全く原因が解りません。あらゆる検査の結果は全て、奥様は完全な健康体であることを示しています」
何しろ元機関お抱えの病院だ。最高の医師たちが揃っているに違いない。そして彼らが原因不明と言うならば、それは誰が見ても間違いなく原因不明なのだ。
身体上の数字は至って正常であり、ハルヒは普段と何一つ変わらない様子だった。一旦意識を失うとしばらく目を覚まさなくなる、ということを除けば。

俺は会社に事情を説明し、長期休暇の許可を得てずっとハルヒに付き添った。
以前俺が階段から転げ落ち、意識を失ったときと同じ個室。あのときハルヒは今の俺と同じような気持ちで俺のそばにいてくれたんだろうな。

医師達がサジを投げるまでにはそう長い時間は必要とされなかった。
ハルヒは意識を回復させては、眠りにつくということを数日間繰り返した。
そして起きている時間と寝ている時間の割合は次第に逆転し、ついにはほとんどの時間ハルヒは意識を失い続け、起きている間ですら意識が朦朧とした状態になった。
焦燥しきった俺は藁にもすがる思いで、ハルヒの意識があるわずかな時間に、自分がジョン・スミスであることを告白した。
こうすればハルヒの中で何かが起こり、突然元気になってくれやしないか、と思ったのだ。
俺はジョン・スミスのことをあの閉鎖空間の中でもそれ以降も、一度も口にしたことはなかった。
もちろん、ハルヒにSOS団メンバーの正体を明かすことを避けたかったからであるが、理由はそれだけではない。
俺を愛してくれるハルヒには、ジョン・スミスの存在は必要ないと思っていた。それが俺とハルヒの関係に何らかの好ましくない変化を与えるかもしれないとも考えていた。
だが俺は意を決し、その事実をハルヒに打ち明けた。
そしてその決意もむなしく、結論から言えばそれは何の効果もなかった。
「そう……あんたがあのジョンだったなんてね。高校一年のとき、あなたと以前どこかで会ったことがあると感じたのは間違いじゃなかったのね。……だとしたら、あのとき背負ってたのはみくるちゃんなの?」
あいかわらず勘がいいな、お前は。
「そうなんだ。そう思えばあたしの人生って結構不思議なものだったのね……」
お前は知らないだろうけどな、お前の人生は普通とは比べ物にならないくらい不思議なことで満ち溢れていたんだぞ。
「色々あったわね……今まで幸せだったわ。あんたのおかげよ」
頼むから、そんな今生の別れのようなことを言ってくれるな、ハルヒ。
ハルヒはそう言ってしばらく後、また眠りについた。俺も数日前からの徹夜の付き添いの疲れからか、いつの間にか眠りについていた。

ハルヒはその一時間後、そのまま目を覚ますこともなく、俺に気づかれることもなく、唐突に、ひっそりとこの世を去ってしまった。

自分自身がわけの解らん奴なら、死ぬときもわけの解らん死に方をするのか、ハルヒよ。
俺はハルヒが死んだという事実にわき目もふらずに、目から涙を溢れさせていた。
お前は高校一年のときの七夕を忘れちまったのか?
あのときお前は世界が自分を中心に回るように、地球が逆回転するようにって短冊に書いただろうが。ベガとアルタイルに願いが届くまであと何年かかると思ってんだ。
俺はこの先、お前を取り巻く状況がどう変わるのかを楽しみにしてたんだぞ。お前がどれだけ世界を盛り上げ、そしてそれに俺がどう巻き込まれるかを。
そしてお前はこう言うんだ。
「ほらねキョン、あたしの言ったとおりでしょ!」
俺がいつも見ていた、そしてこれから先もずっと見られると思っていた、あの赤道直下の笑顔で。
――一体、どこからこんなに涙が溢れてくるんだ。
あの閉鎖空間でのキスのときとは違った意味で、世界は変わってしまった。いや世界は終わってしまったのだ。

 …なあハルヒ、俺はもうお前に会えないのか?

 …お前はもう戻ってこないのか?
それから俺は数日間を泣き通した。

ハルヒの葬儀には、俺とハルヒの親族、俺の仕事の同僚たち、ハルヒの学校の関係者、学生時代の友人、そして古泉と鶴屋さんが参列してくれた。長門と朝比奈さんは、やはり姿を見せなかった。
参列してくれた皆が、心底俺に同情してくれた。
だが、俺はこの頃には既に涙も枯れ果てていて、ただ呆然とまるで他人事のような心境で葬儀を進めていた。これが現実だとは、俺には到底信じられなかったのだ。
ほんの数日前まで、そこに確かにあった俺とハルヒの日常。
やけに目覚めのいいハルヒがいつも先に起き、朝食を作ってくれた。
あいかわらず目覚めの悪い俺を楽しそうに叩き起こしてくれた。
朝食を食べながら一日の予定を確認しあった。
一緒に住まいを出て、駅で別れ、駅で待ち合わせた。
一緒に食材を買い、一緒に夕食を作った。
それらを囲みつつ一日の出来事と昔話とこれからの話をした。
そこにはいつも、俺のハルヒの最高の笑顔があった。
そしてそれは突然俺の前から消え失せてしまった。
そんなことを一体誰が信じられるものか。
ハルヒの葬儀からしばらくの間、結婚とともに越してきた住まいで、俺は抜け殻のような状態で日々を過ごした。
何もする気が起こらなかった。食事すらほとんどとらず、ただ起きて、ただ寝るだけのような生活。一体何日間そうしていただろうか。

そしてある日、俺は突然それを認識した。
ハルヒが死んだ瞬間に感じた、世界が変わってしまったという感覚が、またしても俺の感情の変化によるものだけではなかったことに。
ハルヒが死んでからというもの、俺の頭の中に奇妙な違和感が存在していることには気づいていた。
そして、それはハルヒの突然の死による悲しみがそうさせているのだろうと、俺は当然のように思っていた。
しかしそれは違っていた。それだけではなかった。

俺の頭の中に、突如としてSTC理論とTPDDが備わっていたのだ。

STC理論。朝比奈さん(大)が以前俺にその存在を教えてくれた時間平面移動の理論。
TPDD。時間移動をするための、頭の中に無形で存在する装置。
理屈じゃない。それが俺の頭の中にあることを、俺は実際に感じることが出来た。
なぜ俺に突然そんなことが起こったのか。理由はすぐに解った。

ハルヒがそれを望んだからだ。

ハルヒは、わずかに残された最後の力で、俺にこれらの能力を与えてくれていたのだ。
長門によって世界が改変されたとき、朝比奈さんは言った。STC理論を指して「あなたにもそのうち解ります」と。
朝比奈さん……つまりはこういうことだったんですか?
ハルヒが俺に託してくれたこの能力。すぐに使い道は決まった。
だってそうだろ? 他の選択肢なんてあるもんか。
今まで散々俺を振り回しておいて、それで満足したらさようならか? それを他の誰が許したとしても、俺は絶対に許さない。
俺は確信を持って言える。お前のような、あまりにも規格外な人間を愛してしまった俺にとって、お前を忘れることなんて絶対に無理だ。出来るはずがない。

お前だって、俺がそう考えると思ったから俺にこの能力を託したんじゃないのか?
俺は静かに、そして強く誓った。

ハルヒが死ぬという事実を何としてでも変えてやる。この俺の手で!

俺はすぐに計画を練りはじめた。
これから俺はTPDDを利用し過去に時間遡行して、ハルヒの死の原因を究明し、それを防ぐために歴史を改変することになる。
時間は一刻も無駄にはしたくない。俺は早速試しにとばかりに、時間を一分ほど遡行しようと考えた。そのときそれは起こった。
目の前に突然もう一人の俺が現れたのだ。
つまり一分後の時間平面から時間を一分間逆行した俺だ。実際に試すまでもなく、TPDDの機能は実証されたのだ。
一分後の俺は、俺に軽く挨拶し、一分後の世界に戻ると言って目の前から消えた。
そして俺は一分前の世界への逆行を試みた。体全体がグラっと揺れる感覚の後、それは実にあっけなく成功した。俺は一分前の俺に軽く手を上げ、元の時間平面に戻った。
以前感じためまいや吐き気は全くなかった。これは時間移動距離の差によるものなのか。あるいはあのときの不快感は、時間移動の方法を隠すために俺に施された処置によるもので、つまり目隠しのような状態で車に乗せられれば誰だって酔いやすい、ということなのだろうか。
単純に、車を運転する人より助手席に座る人のほうが酔いやすい、ということなのかもしれない。
今この時間平面上で、STC理論を知りTPDDを得た人類は間違いなく俺だけだ。俺の知る限りでは、今の時代にはSTC理論の基礎すら出来ていない。それを作るであろうあの眼鏡の少年はまだ高校生くらいだろうからな。
つまり、おそらくは人類史上で最初となる時間遡行が今まさにおこなわれたのである。

やれやれ、まさか俺が輝ける人類初のタイムトラベラーになるとはな。

同時に、既定事項を満たすことの重要性に思い至った。朝比奈さんが必要以上に既定事項にこだわっていた理由を、身を持って理解した。俺がたかだか一分間の時間遡行を怠ってしまうだけで、その瞬間に歴史は変わってしまうのだ。

俺は家を出て人気のない路地に移動し、今度は過去一年間の時間遡行を試みた。
実に簡単だ。そう念じるだけでそれはおそらく可能だろう。
体が揺れる感覚がきた。移動は完了した。腕時計を見る。そしてそれが何の意味もないことに気づいた。時間移動をしたからといって時計の針が正しい時間に合わせて勝手に動いてくれるはずもない。それ以前の問題として、俺の腕時計は三本の針のみで構成されたシンプルなアナログ時計であり年月は表示されない。
俺は近くのコンビニエンスストアに足を運び、新聞の日付を見ることにした。過去の七夕でも使った手だ。
そして、俺は意外な結果を知ることになった。新聞の上部に記されていた日付は俺の予想とは違っていた。およそ一ヶ月までしか時間を遡ることが出来ていなかったのだ。
コンビニエンスストア近くの路地に入り何度か試してみた。過去一年間を三回、半年を二回、三ヶ月間を一回、未来については少し気が引けたが、一回だけ一年間の移動を試みた。
結果は全て同じだった。過去であろうが未来であろうが、俺が移動可能なのは前後一ヶ月間だけだった。

 ならば、一ヶ月前の過去からさらに一ヶ月前に遡ればどうだ? 

 それなら二ヶ月前に行けるはずだ。
だが結果は同じだった。やはり元の時間から一ヶ月以上移動することは出来なかった。
これはどういうことだ?
俺は住まいに戻り、その理由を考えてみた。
朝比奈さんは、少なくとも一ヶ月先から来た未来人ではなかった。実際に俺と朝比奈さんは、三年間の時間遡行をしたことがある。
では俺が一ヶ月以上の時間移動が出来ないのはなぜだ? それが俺の能力の限界なのか?
たかが一ヶ月間の時間遡行で、ハルヒを助けることが出来るのか?
あるいはそれは可能かもしれないが、その確証は一体どこにあるというのだ。
いくら考えても、有力な解答が導き出されるはずもなかった。

そうやってしばらく頭を抱えていた俺の眼前に、突如として信じられない光景が映し出された。
何の予兆もなく、光や音を発することもなく、その人物は突然俺の目の前に姿を現した。

朝比奈さん(大)だった。

「随分お久しぶりになりますね、キョン君」
俺は呆然として、しばらくそのアンバランスにしてかつ完璧なプロポーションを眺めていた。
我に返った俺はとりあえず疑問を投げかけた。
「っていうか、いきなり俺の目の前に現れたりなんかして、大丈夫なんですか?」
朝比奈さんは静かに微笑み、
「問題ありません。もうあなたの頭の中にはSTC理論もTPDDもあるんだもの」
なるほど、まさしくその通りだった。いずれ朝比奈さんにそれらのテクニカルタームについて解説して欲しいと思っていたが、まさかそれが突然俺の頭の中にひょっこり現れるなんて思ってもみなかったからな。

最初に俺が聞かなければならないのは、次の一点だった。
「朝比奈さんにこんなことを訊く失礼だというのは承知の上ですが。朝比奈さん、あなたは俺の敵ですか? 味方ですか?」
俺がこれからやろうとしていることは、明らかに歴史の改変だ。それがもし既定事項でないのだとすれば、未来人にとって俺は、きっと好ましくない存在になるだろう。
だが、そんなことは構いやしない。今の俺にはTPDDがある。未来を知らないということ
以外は、未来人とは対等の条件だ。
だが、朝比奈さんは俺に、変わらない笑顔でこう言った。
「私はキョン君を助けるためにやってきました」
もともと俺は朝比奈さん(大)に対しては少しばかり懐疑的な立場だ。だが今の言葉に嘘は全く感じられなかった。そもそも何かを隠すことはあっても平気で嘘を言えるような人ではないんだ、この人は。
「解りました。朝比奈さん、俺はあなたを信じます」

となれば、次の質問はこれだ。
「教えてください。ハルヒが死ぬことは既定事項なんですか?」
「それは…説明が難しいんですが」
と、前置きをして朝比奈さんは続けた。



「涼宮さんが死ぬことは既定事項ではありません。ですが今こうやって私たちが話していることもまた既定事項であると言えます」

 正直なところ、何を言っているのか全然解りません、朝比奈さん。

「少し込み入った話になるんですが。未来からの通常の方法による観測では、涼宮さんが死ぬという歴史は存在しません。私たちの知る既定事項は、あなたと涼宮さんは生涯を共に暮らし、二人とも天寿をまっとうします」

 その話は、今の俺にとって何よりも心強いです。でも未来のことを話すのは禁則事項ではないのですか?

「あなたはその気になればいつでも自分で未来を見に行くことが出来ます。あなたにはもはや禁則事項と呼べるものはほとんど残されていません。既定事項を満たすためにお話出来ないことはありますが」

なるほど、確かにそうだ。

「ですが、今のあなたはその未来に辿り着くことは出来ません。時間移動距離の問題ではありません。この時空から未来に行ったとしても、そこには涼宮さんがいない未来が存在するだけです。そして涼宮さんが死ぬという過去を観測出来ない未来人は、本来なら今のあなたに会うことは絶対に不可能なことなんです」

「つまり、それは一体どういうことですか?」

「簡単に言えば、今この時空は未来から閉ざされています。例えば歴史が上書きされた場合、未来からはその結果しか観測出来ません。そして涼宮さんが死ぬことは既定事項ではない。つまりこの時空は上書きされる予定であり、本来であれば私はこの時空には決してたどり着けないんです」

俺の頭上で回転するクエスチョンマークが朝比奈さんには見えたようで、
「思い出して、キョン君。長門さんが世界を改変したときのことを。あのとき、改変された世界に私が赴いて三年前の七夕……いいえ、長門さんさえいればどこでもよかったのだけれど、そこまであなたを連れて時間遡行すれば、あなたは苦労せずに歴史を再改変させることが出来たはずです。長門さんの脱出プログラムを必要とせずに。でもそれはされなかった。されなかったのではなく出来なかったの。長門さんに改変された世界は、最終的には長門さんの再改変によって上書きされました。つまり未来からでは、上書きされる以前の改変世界には辿り着くことが出来ないの」

「なんとなくですがそれは解りました。では朝比奈さんはどうやってここに来ることが出来たんですか」

「今私がこうしてこの時空に存在しているのは、預言者、言葉を預かる者と書くほうね、その人の力によるものなんです」

 預言者……ですか?

「彼は未来人組織の中でも謎中の謎とされる人なの。いつの時代のどこの人であるかということも解りません。彼は私たち一般的な未来人が知る、歴史の上書きされた結果だけではなく、歴史が変わる過程をも知り得る、特異な能力を持つ存在だとされています」

 俺は終わらない夏休みと長門のことを思い出した。

「預言者の話をする前に、あなたについて話す必要があります。少し長い話になりますが。今までのあなたの行動。これは全て既定事項だったんです。例えば、あなたが三年前の七夕に涼宮さんを手伝ったこと、あるいはSOS団結成のきっかけを与えたこと」

 それはどちらかと言えば、俺が選んだ行動ではなく、朝比奈さんに与えられた行動だと思うんですが。

「既定事項というものは、そう簡単に覆るものではありません。未来人が過去に介入することは実はそんなに稀なことではないんです。だとしたら、あなたは歴史や未来をすごくあやふやなものだと感じるかもしれません。でも実際はそうではないんです。なぜなら未来人の介入も
含めて全てあらかじめ定められたこと、つまり既定事項なんです。例えば、幼かった頃、私と
キョン君が少年を交通事故から守ったときのことを思い出してください。あなたはあれをあたかも他の未来人の干渉から歴史を守るために取った行動だと思ったかもしれません。でもそれは違うんです。他の未来人組織が彼を襲ったのも含めて既定事項なんです」

にわかには信じがたい話だが、それならいつぞやの敵対未来人組織が既定事項をなぞるだけの行動にクサっていたのには納得がいく。

「私たち未来人は、涼宮さんが作った時間断層を発見して以来、その時代周辺の歴史を丹念に調査しました。そして驚くべき事実を発見したの。それは未来に対して重大な意味を持つ事件がこの時代のこの地域に集中していたこと、それらの事件には私たちの時代の未来人が数多く介入していたということ、そして……それらの事件の全ての中心には、キョン君、あなたがいたということ」

「よく解らないんですが……、それは朝比奈さんたちがそう仕向けたんじゃないんですか?」

「いいえ。私たちは過去の事実に従って行動するだけです。私たちはなぜあなたが未来に関する全ての重要な分岐点に関わっていたのかを徹底的に調べました。その生い立ちから、生涯までを。これは大変な作業だったわ。だって、あなたの生涯とその周辺を調べるためには、あな
たが生きたあらゆる時間平面に対して、常に誰かが監視する必要があったから。そのひとりがまだ幼かった頃の私。当時の私は涼宮さんの監視係であったと同時に、あなたの調査係でもあったの。これは後から知ったことだけどね」

 なるほど、それは大変そうだ。仮に俺の寿命が七十年だとすれば、それを詳細に知るには七十年分とまではいかなくとも、相当の労力を費やさなくてはならないだろう。

「でも、結局はその調査は実を結ばなかった。未来人のあらゆる観測・調査によっても、あなたがなぜそのような立場になったのかずっと原因不明のままだったんです。観測上では、あなたは一方的に涼宮さんの起こす騒動に巻き込まれ、紆余曲折の末に涼宮さんと結婚し、そしてその生涯を平穏に送った、普通の人間です」

 じゃあ、今ハルヒが死んで、こうやって朝比奈さんと話している俺は何なんだ?

「私が今こうしてキョン君と話していることは、他の未来人の誰も知らないことです。私と預
言者だけが知る事実。私が預言者から直接、ここに来てキョン君に助言を与えるようにと指令を受け、そしてこの時空間の座標を与えられたの。だから私は今ここに来ることが出来ているんです」

 この朝比奈さんも、正体の解らない何者かの指示で操られているのか。俺は今まで朝比奈さん(小)に対する朝比奈さん(大)の態度に釈然としないものを感じていたが、結局は朝比奈さん(大)のほうも同じような立場だったんだな。今度から怒りの矛先はその預言者とやらに
向けることにしよう。

「預言者の話は、私には信じられないことばかりでした。だってそうでしょう? キョン君が
涼宮さんの死と引き換えに、人類初のタイムトラベラーになるなんてこと」

 その意見には俺も全面的に同意します。

「そして、さらに預言者は驚くべきことを言っていました。あなたは誰の制約も受けずに歴史を改変する権利を得た唯一の人物なの。言い換えればあなたは物語の主人公のようなもの。物語の世界が主人公の望まないものになることはあまりないでしょう? 例えば、涼宮さんはあなたの知るとおり何度か世界を作り変えようとしました。でもあなたはそれを望まなかった。
だからこそ、世界は改変されることなく存続し続けていると言えます。つまり、あなたはあなたが望む歴史を自ら切り拓くことが出来る存在なんです」

 俺はそんな大それた存在のつもりは全くないんですが。俺が何を望むかといえば、今までと変わりない無難な生活くらいです。
もっとも、多少の刺激は欲しいとは思っていたし、実際にそういうスパイスは高校生活中に無闇やたらに散りばめられていたんだが。

「最後に、預言者からあなたに対する伝言です。私たち未来人は今まであなたに様々なヒントを与えました。そのことをよく思い出して。これから涼宮さんを復活させるまでの過程において、キョン君は長らく私たちの援助を受けられない状態が続くことになります。なぜそうなのかは、私には詳しくは解りません。預言者が教えてくれなかったから」

 つくづく、その預言者とやらはもったいぶった奴なんだな。おそらくはそれを教えないこと
も含めて既定事項なんだろうが。

「だからキョン君、あなたはあなたが思うとおりに、あなたが信じる行動をとってください。
その結果、最終的には私たち未来人が知る歴史に至ると私は信じています。でももしかしたら、そうならないかもしれません。これは私たち未来人にはどうすることも出来ません。あなたが望む未来を、あなた自身がこれから決めなければなりません」

 ひと通り話し終えた朝比奈さんが、身につけていた腕時計を取り外した。以前朝比奈さん(小)が使っていたのを見たことがある、あの電波時計だった。
「これは私からのプレゼント。これからのあなたにはきっと役に立つと思うから」
朝比奈さんは笑顔を取り戻し、それを俺に手渡した。

「それでは私は戻ります。全てが終わったら、是非私のいる未来に遊びに来てください」
それは俺にとっても興味のある提案です。楽しみにしてますよ朝比奈さん。それに全ての黒幕である預言者とやらに、俺も少なからず言ってやりたいことがありますし。
ああ、待てよ。
「朝比奈さん、最後に教えてください。俺は時間移動を一ヶ月間しか出来ないんですが、これはなぜですか?」
「ごめんなさい。禁則事項です」
朝比奈さんは以前と変わらない、イタズラっぽい笑顔を俺に見せた。
「でも答えはすぐに見つかると思います。それがあなたにとっての既定事項だから」
ううむ、そういうものなのか。
「がんばってねキョン君。あなたが私たち人類初のタイムトラベラーなんだから!」
ありがとうございます。がんばるしかないですからね俺は。人類初とかはさて置いておいても。
そして朝比奈さんは俺の目の前から姿を消した。
昔だったら俺は意識を失わされているところだろうな。



第 二 章


 とにかく時間移動距離を伸ばす必要がある。
たった一ヶ月間の時間移動でハルヒを救えるとは思えない。
俺には協力者が必要だ。朝比奈さんは言った。今までのヒントをよく思い出して、と。
俺はすぐに、命を救い亀を与えたあの少年のことに思い至った。

この時代でタイムトラベルに関する話を切り出せるのは、彼しか思い当たらない。
彼に接触を試み、協力を仰がなければならない。

ハルヒは少年が近所に住んでおり、たまに勉強を教えていると言っていた。
ならばハルヒの母親に聞けばおそらく住所は解る。そしてそれはその通りだった。

 少年の家を訪ね、少年の部屋に通された俺は、ストレートに接触を試みることにした。
俺の外見は高校生の頃に比べて多少は背が伸びていたものの、顔つきなどはあまり変わっていない。だが念のために俺は、以前君を交通事故から救った者だと告げた。

少年はすぐに思い出したようで、
「あのときはありがとうございました。当時は僕もまだ子供で、ロクなお礼も言えませんでしたから。あらためてお礼申し上げます」
 いかにも聡明そうな態度で深々と頭を下げた。
「礼は別にいいんだ。俺は今日、君にあるお願いをするためにやってきた」
「それはどういったことですか?」
「君にタイムトラベルに関する助言を得たい」
 俺の言葉に、少年は少なからず驚いた表情を見せた。今の少年は俺が初めて長門から電波話を聞かされたときのような気分なんだろうな、と推測した。

だが、少年の反応は予想とは異なっていた。
「あなたはなぜ僕が時間移動の研究をしていることをご存知なのですか?」
 既に研究に着手しているということか。ならば話は早い。

「もしかして、あなたが亀を川に投げ込んだことや、あの記憶媒体もそれと関係があるのですか?」
 記憶媒体の住所はこの家ではなかったはずだ。そう言う前に少年が解答をくれた。
「記憶媒体はご存知ないですか? 僕は友人からそれを譲り受けたのですが、もしやあなたが手配してくれたのかと」
 なるほど、巡り巡って結局はこの少年の手に渡っていたわけか。確かに辻褄は合う。
さらに言えば、朝比奈さん曰く時間平面理論の基礎中の基礎だという、ハルヒが書いたわけの解らん論文めいたものも大いに関係があるんだが。

「涼宮さんの論文は僕が時間移動の研究を始めるきっかけになりました。そして今も時間移動に関するインスピレーションを与え続けてくれています。それに亀が投げ込まれたときの波紋のイメージが合わさって、さらに論文の理解度が強化されています。時間の流れと水の流れというものは、次元こそ違えど共通する部分は多いですからね」
 そんなものなのか?

「ええ。また、あの記憶媒体ですが、あれは現存するいかなる電子的記憶媒体のフォーマットとも異なっていて、正しいデータの読み出しすら困難です。現在のところ、データのパターン分析をおこなっているところで、それによればかなりの部分のデータが破損しています。しかしながら、これは偶然に発見したのですが、破損していないデータの構成パターンが、実は涼宮さんの論文のデータと一致するんです。おそらく今とは異なるデータの扱い方をすれば、パターンではなく詳細な情報まで全て一致すると考えられます。ところであなたは涼宮さんのこともご存知なんですか?」
 俺はそれには答えず、話を続けた。
「それで、俺の助けには応えられそうか?」
「タイムトラベルに関する助言とおっしゃいましたよね。正直なところそれは出来ません。したくないと言うことではなく、物理的に無理だという意味です。現状ではタイムトラベルは理論上可能とされていますが、それをどうやって実現するのか、全く解っていない状態ですから」
 現時点では確かにそうだろうな。ならば俺は賭けに出るしかない。

「実は、その論文や記憶媒体よりももっと重要なデータ、それはタイムトラベルの理論の核心と言ってもいい。それを俺は持ってるんだ。それを知りたいとは思わないか?」

 その重要なデータとは、言うまでもなく俺の頭の中に存在するSTC理論そのものだ。
これは歴史改変にあたることなのかもしれない。もしかすれば、本来ならもっと後になるS
TC理論の発見を前倒しすることになるからだ。

だが、俺は疑問に思っていることもある。
STC理論について、以前朝比奈さんは言語では伝えられない概念だと言った。ではそれを人類はどうやって獲得し普及させたのか。
また朝比奈さんは、未来の人類は今で言うコンピュータネットワークのようなものは使用せず、それは人間の脳内に無形で存在する、とも言った。
つまり、未来の人類は言語を用いずに人間の脳から脳に直接情報を伝達する術を得たということだ。朝比奈さんが時空を越えたテレパシーのようなもので未来と連絡を取り合っていたこととも符合する。
つまり人類はSTC理論よりも先に言語ではないコミュニケーションの手段を完成させたと
いうことなのかもしれない。

だが俺はひとつの仮説を立てた。それは人類の中の一人が偶発的にSTC理論とTPDDを手に入れ、それが次第に波及したのが未来の姿ではないのだろうか、と。
そして、その一人というのが実は俺のことなんだと。
もっとも、そんな仮説をあれこれもてあそんでいる暇はない。俺は古泉とは違う。
俺は朝比奈さんの言葉に素直に従うことにした。俺は俺の信じる道を進むしかない。
「あなたがそれほど重要なデータを持っているのであれば、僕の助言など必要ないように思えますが」
「その問いには正直うまく答えられないんだが……俺にはその理論をいまひとつ理解しきれないんだ。君がもしそれを得ればきっと俺以上に理解出来るように思う」

これは全くの本心だ。俺はSTC理論を得た今でさえ、ハルヒの論文を読み返してもさっぱ
り理解出来なかったからな。
「なるほど。ではよろしければそれを僕に見せていただけますか?」
「それを伝えるのには条件がある」
 少年はやや躊躇したが、その条件を教えてくれと言った。

「俺が持っているデータだが、もしかしたら君にうまく伝わらないかもしれない。その場合はこの話はなかったことにして、今日起こったことはすっかり忘れて欲しい。また、伝えるのに成功した場合もそうだが、今日のことは誰にも話さないで欲しい。それを約束出来るか?」
 もしうまく伝えられなかった場合、今回の試みは明らかに失敗に終わる。少年には今日のことは全て忘れて今までどおりの生活を送ってもらわなければならない。

「なるほど。それがそれだけ重要なデータなのだということは理解しました。ですが伝わらないかもしれないとはどういうことでしょうか。そのデータを紙でも電子媒体でもいいのですが、何らかの方法でいただけさえすれば、僕はなんとかそれを読み取る努力をしますが」
 少年の疑問はもっともだった。だが、何しろそれを伝達出来るかどうかは、俺にだって解らない。それは言葉で伝えられるものではない。
言葉を用いない概念は、言葉以外のものでしか伝えられないのだ。

「今は残念ながらその疑問には答えられない。だがさっきの約束を守ると言ってくれれば、今すぐにでもそのデータを伝える努力はする。君に伝わるかどうかは、さっき言ったように俺にも保障は出来ないんだが」
 少年はしばらく迷う素振りを見せたが、
「解りました。先ほどの条件、お約束します」

どうやら不安よりも学者的好奇心が勝ったようだった。
俺は少年の目を見て、おそらく大丈夫だろうと予想した。
「では、まず今の時刻を覚えてくれ。ああ、腕時計はダメだ。部屋の時計を見てくれ。そうだ。忘れないでくれ」
 少年は意味が解らないという表情をしていたが、一応は素直に従ってくれた。
俺は少年の手を取り部屋の隅の方に移動させ、朝比奈さんに連れられて初めて時間移動したときのことを思い出しながら言った。
「肩の力を抜いてリラックスして、そして目を閉じてくれ」

五分後のこの部屋の同じ位置に時空間座標を設定し、時間移動を開始する。
そして体がグラっとする感覚がきた。
五分後の世界には五分後の俺と少年がいて、何やら話し込んでいた。
少年は到着するなり、体全体の力が抜けたようにその場に座り込んだ。

俺は少年が、いきなり別の俺たちが目の前に現れたことに対して驚きのあまり腰を抜かしたのだろうと思った。
が、少年はすぐさま部屋の時計に目をやり、さらに驚愕の表情を顔に浮かべてこう言った。
「こ、こんなことって……これが時間移動……今までの僕の理解なんて、ほんの氷山の一角の、そのさらに欠片のようなものだったなんて……」

どうやら俺とは根本的に頭の出来が違っているらしい。少年は今まさに自分がタイムトラベルをおこなったということをたちどころに理解したようだった。
何はともあれ、目的は無事達成されたようだ。あとは少年次第だ。俺たちは元の時間平面に戻った。

少年は、興奮しつつも、ゆっくりとした口調で語りだした。
「涼宮さんの論文は、時間移動の基礎の理論と言えます。時間はアナログではなくデジタル情報であり、それらのデジタル情報を平面に例えて、積み重なったその平面をY軸方向に移動することで時間移動を可能にする、という理論です。今言ったのは言語化可能なレベルでのモデルを用いた説明であり、時間移動の本質は人間の脳内に存在する時空間の知覚システムを追及しないと解明出来ないと考えられます」

脳内システムはともかくとして、前半の話は今まで俺が散々色んな人から聞かされてきた内容と同じだ。
「今の時間移動をとおして、僕は時間移動の基礎理論を得たとともに、僕の脳内の知覚システムが改変されたのだと思います。おそらくですが、これは言語で概念を説明出来るものではなく、実際に体験を通してでしか得ることが出来ないものだと推測します」
 まさにその通りだ。どうやら少年は時間移動の刹那に、ハルヒの論文、つまり時間平面移動理論の基礎を完全に理解したようだった。

「早速で恐縮なんだが、ひとつ教えて欲しいことがある。仮説でもなんでも構わない。俺は時間移動を最大で一ヶ月間しか出来ないんだ。例えば一ヶ月前からさらに一ヶ月遡ろうとしてもダメだった。その理由が解るか?」
 俺は正直なところ明確な答えが返ってくることは期待していなかった。
だがそれに対して少年は即答した。
「あなたの脳内における時空間の知覚システムがまだ開発されきっていないことが原因だと考えられます」
 知覚システムの開発? それはどういうことだ?
「これは少し実際の概念とは異なるかもしれませんが、イメージで説明すれば、あなたはまだ時間移動に慣れていないのだと思います」
 なるほど、そういうことか。では時間移動距離を伸ばすためにはどうすればいい?

「時間移動の回数を重ねることです。要するに訓練ですね。そうすればいずれ時間移動距離は伸び、飛び石的な移動、つまり同一方向への連続的な時間移動も可能になると思います」
 時間移動に訓練が必要だとは。実は案外大変なことだったんだな。
 朝比奈さん(小)は正直に言って頼りない人だったが、実はそういった訓練を充分に積んだエキスパートだったってことだ。
話しているうちに五分はゆうに過ぎていた。どうやら話し込むあまり、俺たちは五分前から移動してきた俺たちの姿に気づかなかったようだ。
さらに少年は話を続けた。

「この理論をベースに、今後人間の脳の機能、特に知覚機能をさらに発展させる研究が可能になると思います。例えば言語を用いずに意思をコミュニケート出来るような、そういったことが実現するかもしれません」

なるほど。やはり全ては今このとき、この場所から始まったのかもしれない。
「研究には長い時間が掛かると思われます。脳医学の分野からのアプローチもさることながら、おそらくあの記憶媒体のデータを解析することから始めるのが近道のように思われます。あのデータの出所は不明ですので不安はありますが、それでもデータの一部が涼宮さんの論文と一致するという点を考えれば、試してみる価値は大いにあります」

少年はなおも続ける。
「破損していないデータは、涼宮さんの論文と共通する箇所を基に、情報の変換パターンを解析すれば、比較的すぐに読み解けると思います。破損したデータを解析するのは、これは一朝一夕では出来ません。少なくとも破損していないデータを全て読み解き、その内容を完全に理解することによりそれらの中から本来のデータ部分と冗長データ部分を確実に切り分け、データの解読方法を確定させることによって初めて破損部分のデータの伸張・復号が可能になります。さらに、その中で冗長データでは補えない部分を、別の理論で補完する必要性もあります。つまりは復元の糸口を得るためだけにもそれなりの時間がかかり、全てのデータを復元するのにはさらに時間が必要だということです」

後半の用語は全く理解出来なかったが、それは結局のところどれくらいの時間がかかるものなんだ?
「おそらくは、破損していない部分におよそ三十年、破損している部分におよそ二百年、といったところだと思います」
 軽いめまいを覚えた。どうも学者様の時間感覚は、常人とは少し違うらしい。
「それは大勢で手分けすれば時間が短縮出来るものでもないのか?」
「今ざっと算出した所要時間は、脳内に時間移動の基礎理論が出来上がっている人間が解析することを前提にしています。つまり僕のような、時間移動をおこなったことにより時間移動理論を獲得した者が研究に従事したとして、それだけの時間がかかるということです。大量の人間に時間移動を経験させ、それらの人たちが研究をすれば、あるいは研究に要する時間は短縮可能でしょう。しかしながらそのような方法は極めてリスクが高いと考えます」

それはなぜだ?
「時間移動によって一体何%の人が時間移動理論を得られるのか、僕にもそれは解りません。理論を得られなかった人には、あなたがさっき僕に念押ししたように、時間移動の事実を隠してもらわなくてはならないでしょう。ですが情報というのは確実に漏洩し拡散するものです。いたずらにそういった実験を繰り返して、時間移動を経験した人が増え続け、その情報がどんどん広まっていくような世界は、僕にとっては非常に恐ろしいものに思えます」
 確かにその通りだ。さすがに頭がいい。
つまりはそういった事情により、信頼のおける人間のみで構成され、機密を守りつつ、実験や研究を続けているのが未来人組織ということになるんだろうな、と俺は想像した。
それであれば、やたらに禁則事項が多いという組織の方針にもなんとなく納得がいく。

「この時間平面上の人類で時間移動の経験があるのは、おそらく俺たち二人だけだと思って間違いない。君は今までどおり、時間移動に関する研究を続けてくれ。そうして何か有益な情報が得られたら俺に教えて欲しい。時間移動距離に関することは可能であれば今すぐにでも情報が欲しい」
「解りました」
俺は自分の連絡先を伝え、少年の携帯番号と、念のために記憶媒体を入手した人物の住所を手帳に記した。
「最後にひとつだけ教えてください。これは個人的な興味からなのですが。あなたは未来人に会ったことがあるんですか?」
 ある、と俺は正直に答えた。
「そうすると、あのときあなたが僕を交通事故から守ってくれたのは、もしかしたら未来人が関係しているのですね」
 重ねていうがさすがだ。甚だしく勘がいい。
こうして少年は、将来的に未来人組織が発足するための基礎となる研究を始めた。
なんとなくではあるが、これはきっと既定事項なんだろう。
そうなんですよね、朝比奈さん?

 やれやれ、まさか俺が未来人組織に一枚噛んでいたとはな。

 俺は今後のハルヒ救出活動にあたってとりあえずの難題を抱えることになった。
俺はすぐにでも仕事を辞めて、救出活動に専念するつもりだ。
まず俺は、家族に何と言うべきかについて悩んだ。当然ながら、正直に理由を話すわけにはいかない。
あれこれ悩んだが、結局俺はしばらく旅に出るとでも言っておくのがいいのだろうと考えた。
きっと家族は俺のことを心配するだろうが、今の俺にとってはハルヒ救出が最優先事項だ。
そしてもうひとつは極めて現実的な問題。具体的に言えば、どうしても金銭面で抜き差しならない状態になることが容易に想像出来る。
何しろ俺は就職後間もなく貯金も少ない状態でハルヒと結婚しちまったんだからな。
結婚ってのが披露宴なんかしなくても充分金のかかるものなんだと俺はそのとき初めて知った。
そして、言うまでもなく貯金は既に使い果たしている。
ただでさえこれから心配をかけるであろう家族に、事情も説明せずに金銭面の援助を申し出るわけにもいかない。
せっかく時間移動が出来るようになったんだからギャンブルで一気に稼いだらどうだ、とも考えたが、その案は俺自身が即座に却下した。
たった一分間の時間移動、それですら俺は既定事項の遵守ということに神経を尖らせるようになった。

 仮に俺が競馬で不当に儲けたとする。そうすることによって、俺が儲けた金額の分だけ確実に他の誰かの取り分が減るのだ。それが一体どれだけ歴史に影響を及ぼすのか、俺には全く予想不可能だった。
たとえ朝比奈さんが言う閉ざされた歴史だとはいえ、そのことで知らない誰かを不幸にするのはさすがに躊躇われる。

 ならば古泉経由で元機関に金銭面の援助を得ることが出来ないか?
やはり古泉であっても事情を説明するわけにはいかない。STC理論やTPDDの存在をむやみに拡散させるのが正しいことでないのは明らかだ。
古泉は未来人の存在を知ってはいるが、具体的な時間移動の方法についての知識を持っているわけではないだろう。
そして、古泉の性格からすれば援助の理由を聞きたがるに違いなく、俺にはそれを黙りとおす自信はなかった。
おまけにハルヒの入院費用についても、古泉が立て替えてくれている。
返済はいつでも構わないと古泉は言ってくれた。
そんな状態でさらに資金援助を依頼するのはさすがに虫のいい話だった。
そして、そういった理由以上に、俺はこれ以上古泉や元機関の人たちを巻き込むわけにはいかないと考えていた。
過去の戦友を俺の個人的な都合で再び戦場に赴かせるようなことは、俺には出来なかった。

 事情を説明しなくとも、快く助けになってくれそうな人。
そうだ、俺には思い当たる人物がいるじゃないか。
朝比奈さんの同級生で、朝比奈さんが未来に帰ってしまった後もハルヒや俺とつきあいのある、元SOS団の名誉顧問のあの人が。
俺はダメ元で鶴屋さんにアポイントメントを取り付けた。

数年ぶりに鶴屋家の屋敷に足を運んだ。
既に鶴屋さんは鶴屋家の新しい当主となっていた。
「ハルにゃんはほんとに悔やまれるね……」
 と言ってくれた鶴屋さんに、俺は深々と頭を下げた。
「話があって来たんでしょ。まあ上がんなよ」
 いつか、朝比奈さん(みちる)が寝泊りした離れに通された。
 俺はどう話を切り出そうかとしばし逡巡したが、思い切って単刀直入に要件を伝えることにした。
「申し訳ないです。理由は詳しくは話せないんですが」

と前置きしたうえで、
とある事情のため仕事を辞めないといけなくなり、またしばらく仕事に就くことも出来ず、
とても厚かましいお願いですがしばらくの間金銭的な援助をお願い出来ないでしょうか、と。

 ひと通り聞き終えた鶴屋さんは、いつもの調子で、
「いいよっ」
 と、俺の身勝手な要望を驚くほど簡単に受け入れてくれた。

それどころか、鶴屋さんはこんなことを言い始めた。
「そろそろ来る頃じゃないかと思ってたんだっ、キョン君。いや、ジョン・スミスと呼んだ方
がいいのかなっ」
その言葉に俺は意表をつかれた。
ジョン・スミスという名前を知り得るのは、俺とハルヒと未来人以外ありえない。
長門ですら知っているかどうか確証はない。
その単語がどうして鶴屋さんから出てくるんだ?
「あれれ? この話はまだ言っちゃいけないことだったのかな?」
 鶴屋さんが実は未来人だったのか、あるいはTFEI端末だったのか、などと疑っている俺に、鶴屋さんはその理由を語り始めた。
「古泉君が所属していた機関については知ってるよね?」
 肯く。
「あたしんちが、その機関のスポンサーになってたことも古泉君から聞いてるよね?」
「ええ、聞いてます」
 鶴屋さんは俺と古泉のヒソヒソ話の内容まで知っているのか?
 などと訝しげな表情を見せていたであろう俺に、鶴屋さんは驚愕の事実を告げた。

「古泉君の所属する機関の創設者。それがキミ、ジョン・スミスさっ!」

 文字どおり、俺は腰を抜かした。
それを見て控え目に笑う鶴屋さんの話を総合すると、こういうことだった。
とある理由で鶴屋家に出入りするようになったジョン・スミスは、当時の当主であった鶴屋
さんの父親の助力を得て機関を作り上げたのだそうだ。
鶴屋さんがまだ中学生だった頃だ。
「その頃のことはよく覚えてるよ」
 と鶴屋さんは言った。
「ジョンはしばらくこの部屋で寝泊りしてたしねっ」
 それから数年後、俺が高校一年だった頃の初夏、草野球大会で俺と鶴屋さんは出会った。そのとき鶴屋さんは俺にジョン・スミスの面影を見出し、俺とジョンが同一人物ではないかということに思い至ったのだという。

「でも鶴屋さんは、俺のこと普通の人間だって言ってたじゃないですか」
「当時のキョン君はまだ普通の人間だったしさっ」
 確かに。今ではすっかり未来人という立場に片足くらいは突っ込んでる状態だけどな。

「まぁからかい半分で色々とキミに口滑らしちゃったりはしたけどさっ。でも、先に口滑らし
たのはジョンの方なのだっ!」
 今思い起こせば、俺に地球の未来がかかってるとか、未来人と宇宙人のどちらを取るか決めとくようにとか、そんなことを言われたな。
鶴屋さんによれば、これから過去に行くことになる未来の俺――ええい、ややこしい――は、どうやら過去の鶴屋さんに色々と情報を漏らしているようだ。

そんな鶴屋さんの話に驚きつつも、俺はこの先に待っている、かなり真剣に取り組まなくてはならない事態について考える羽目になった。
俺があの構成メンバーの解らない、いや構成人数すらも解らない謎めいた、と言うよりほとんど謎ばかりの超能力者機関なんてものを立ち上げなきゃならんのか?
いずれ過去に行って、どこにいるのか、それどころか古泉以外は誰なのかも解らない超能力者たちを探し出さなくちゃならんのか?
これも既定事項なんですか、朝比奈さん?

やれやれ、まさか俺が超能力者機関に一枚噛んでいた……どころか首謀者だったとはな。

 そういうわけで、俺は鶴屋さんから金銭的援助を受けることになった。
恐縮しきりの俺に対して鶴屋さんは、
「キミがこれから作る機関とやらに、鶴屋家は一体どれだけ投資したか知ってるかい? それに比べれば、当面キョン君を食べさせるくらい全然わけないさっ!」
 ほんとに、何から何までお世話になりっぱなしです。鶴屋さん。
「いやー、実はジョン・スミスには、私もかなり世話になってるのさっ!」
 今日一番の疑問だ。俺がこの鶴屋さんに対して出来る世話なんて、一体この世の中のどこにあるというのだろうか?
「キョン君、がんばんなよっ。キミにハルにゃんと地球の運命がかかってるんだからねっ!」
 これから俺が何をしようとしているのかさえも、鶴屋さんはお見通しのようだった。

 鶴屋家を訪問してからしばらくの間、俺は時間移動の訓練に明け暮れた。
少年が言うように、時間移動の回数を重ねるたびに、少しずつではあるが、時間移動距離は伸びていた。
そして、それを三日くらい続けた後、俺はその事実に呆然とした。
ほぼ休憩なしに訓練をおこなって、一日あたりに二十分程度伸びることが解った。
計算してみると、時間移動距離を一ヶ月から一年に伸ばすために24120日かかる計算だ。 ……おい待てよ、これってどんどん過去が遠ざかってないか?

しばし頭の中が真っ白になっていた俺に少年から連絡があった。渡りに船だ。
「お話ししたいことがあります。今から僕の家にご足労願えますか?」
 少年の家に着くなり彼はこう話を切り出した。
「良い報せが一つあります。もう一つは私からの質問です。よろしいですか?」
 頷いて、続きを促した。
「まず良い報せのほうです。訓練のことについてですが、あなたの時間移動距離は伸び悩んでいませんか?」
 まさにその通り。それもかなり絶望的に。
「一般的に人間の脳が何かを学習するとき、その学習効果は大まかに言うと連続的な伸びを示すものと非連続的な伸びを示すものの二種類に分けられます」

それはなんとなくだが俺にも理解出来る。学習によって少しずつしか効果の上がらないようなものもあれば、ある日を突然効果が飛躍的に上がるようなものもある。
「その通りです。脳内における、時間移動に関する知覚分野の位置からの推測ですが、時間移動距離を伸ばすための学習効果は、後者に該当すると考えられます」

要するに、あきらめずに訓練を継続すればいずれ効果は飛躍的に伸びるということだな。
「そういうことです。おそらく飛び石的時間移動もある日突然出来るようになると思います」
 なるほど。でもどうしてそれが解るんだ?
「先日の出来事以来、僕は自分の脳内の働きを直感的に理解出来るようになりました。例えばこうしてあなたと話している今も、僕の脳内でどの部分が積極的に働いているかを感じ取れるんです。現代科学では脳の活動を厳密に測定するのは不可能なのですが、今の僕にはそれが手に取るように解ります」
 たった一度の時間移動で、少年の脳内は著しい発達を遂げたようだった。俺は何かすごく大それたことをしてしまったような気がした。

少年は一呼吸おいて、
「続いて、質問させてください」
 そろそろ来るか? と思っていた俺に予想通りの質問が飛んできた。
「あなたがどうやって時間移動を出来るようになったのか、そしてこれから何をやろうとしているのか、それを教えてください」
 やはり来たか。
 これは一体どこまで話していいものやら。真相を説明するためには、ハルヒのことだけではなく、未来人、宇宙人、果ては超能力者のことまで話さないといけないかもしれない。
どうしたものかと考えあぐねる。
「話しにくいのであれば、僕の推論を聞いたうえで、答えてください。イエス、ノーで構いま
せん」
「解った」
「あなたがタイムトラベルについての助力が欲しいと言ったとき、僕はあなたが歴史を改変するつもりなのではないかと推測しました。違いますか?」
 少し迷ったが、
「そうだ」
 正直に答えた。
「僕はまず悪用の可能性を考えました。あなたの一挙手一投足によって歴史は変わります。あなたが望み、あなたがそれを実現するために行動すれば、あなたは歴史を自由に変えることが出来るでしょう。そしてそれが世界にとって悪い方向に進む可能性があったとすれば……。その内容次第では、僕はこれ以上あなたに協力することは出来ません」

真っ当な意見だ。少年には当然そうする権利がある。
彼が正義感の強い人物だということは、短いつきあいだが俺にだって解る。
「あなたに悪意がなくとも、あなたの取った行動が未来の人類に悪影響を及ぼす可能性も当然考えられます。どのような結末になるかは僕にもあなたにも解りません。ですがあなたに協力することは、すなわち僕はそれに加担するということです」

俺が言葉を発する余裕もなく彼は話を続けた。
「失礼ながらあなたと涼宮さんのことを調べさせてもらいました。あなたが涼宮さんのご主人であることを知り、僕はある結論に至りました。言ってもいいですか?」
「言ってくれ」

「あなたは、涼宮さんによってタイムトラベルの能力を与えられた。そしてあなたの目的は涼宮さんを死なせない歴史を作ることです。違いますか?」
 推理の矢は見事に核心に突き刺さっていた。

「その通りだ。だがなぜそれが解る?」
「僕も涼宮さんとはそれなりに長いつきあいです。彼女が普通の人間とは違う存在だということくらいは僕にも解ります」
 俺は想像した。もしかしたらこの少年もハルヒによって何らかの能力を与えられた存在なのではないかと。古泉のそれは目的を失い消滅したが、この少年の能力は今も生き続けているのではないか、と。

「僕は、涼宮姉さんには本当によくしていただきました。また、あなたと一緒におられた女性と交わした約束は今もずっと忘れていません。何よりもあなたには感謝の言葉もないくらいです。僕が今こうして生きていられるのは、間違いなくあなたのおかげです。これが偶然なのか必然なのかは解りませんが、僕はあなたたちに賭けてみようと思います」

彼は、俺の目を見つめて、
「覚悟を決めました。あなたに救っていただいた命です。たとえその結果、最悪の結末を招こうとも」
 そして、こう宣言した。
「僕はあなたを信じます」

 俺はその後も引き続き、食事も睡眠もほとんど取らず訓練に明け暮れた。
一ヶ月あまりをそのように過ごし、昨日の訓練により今までおよそ一年だった時間移動距離が一気に六年に達したのだった。
これでも朝比奈さんにはまだまだ遠く及ばない。朝比奈さんは今より何十年、何百年先かも解らない時間平面から俺たちが中学生だった頃まで時間を遡っていたんだからな。
ハルヒは原因不明の難病で命を落とした。

であればハルヒを蘇らせるための手段は二つしか思いつかない。
難病を治すか、難病にかからないようにするかだ。
だが、その原因がウィルスによるものなのか、病原菌によるものなのか、あるいはハルヒ自身の内部的な要因なのか、そんなことすら俺には解らないのだ。
俺はこういうケースに力を発揮する奴を知っている。むしろそいつにしか解決出来ないことは明らかだった。
長門、頼れるのはお前しかいない。

今の時代の長門は情報統合思念体の本体に戻っていて、自律進化のきっかけを基に進化の可能性を探求し続けているんだろう。
この時間平面上で長門とコンタクトを取ることは不可能だ。
ならば俺が最後に長門に会ったあの日に行くしかない。だからこそ俺はそこまで時間を遡る能力を身につけるために、必死になって努力したのだ。
実は日々の訓練と同時に俺は長門を探し続けていた。
そして昨日までの一年間の時間移動で
は、ついに長門を見つられなかった。

だがそれも終わりだ。いよいよ今日の時間遡行で間違いなく長門に会える。
俺はようやくハルヒを蘇らせる手がかりを得られるのだ。

時間移動の準備を開始する。財布の中から身元が割れるようなものは全て取り除く。
うっかり落としでもしたら大変だ。誰かが気を利かせて未来の俺に届けてくれればありがたいが、それは間違いなく過去の俺に届き、過去の俺は混乱することになる。
混乱だけならいいのだが、俺の記憶によれば未来の俺の財布が俺に届いたことは一度もない。なるべく既定事項を破るリスクは避けなければならない。

手帳も同様で、俺の身元やハルヒを連想させるようなことは一切書いていない。
念には念を入れなくてはならない。
向こうでうっかり知り合いに出くわしたときのことを考えて、俺はサングラスをかけておく
ことにした。

ハルヒとつきあい出して、初めて二人だけで行った海。
絵に書いたようなどこまでも続く青い空
地平線が彼方に見える青い海、白い砂浜。
ハルヒがプレゼントにとくれたサングラス。
「あんまり似合わないわね」
なんて言ってたハルヒの笑顔を思い出す。

静かに時空間座標を念じる。北高の卒業式当日、長門と最後に会話を交わした直後。
長門のマンション。708号室前。
例の感覚の後、時間遡行は完全におこなわれた。

朝比奈さんから譲り受けた電波時計がその確かさを俺に告げている。
長門は寄り道をせずにまっすぐここに帰ってくるだろうか。
コンビニで弁当くらいは買ってくるかもな。お別れパーティーで俺たちはさんざん飲み食いしたが、長門ならまだまだ食べられそうだ。

そんなことを考えていると、エレベーターホールの方から見慣れた人影が現れた。
それはまさに、あのとき最後に会話を交わした長門の姿だった。
俺からすれば、四年七ヶ月ぶりに会う長門。
意外にも長門はその表情に驚きの様子が隠せなかった。

「久しぶりだな長門。ああ、お前はこの時間平面上の俺たちと別れたばかりか」
半径十メートルくらいなら幽霊すら含む全ての存在を感知しそうな奴が、俺の存在に気づかなかったとも思えないが。考え事でもしてたのか?
「入って」
 俺たちはいつものリビングの、いつものコタツ机に、各々いつもの位置に座った。

 俺はここに何度訪れているんだろう。そのたびに俺は長門に迷惑をかけた。
そして、今回も俺は身勝手な頼み事をするためにやってきたのだ。
事情を説明した。俺がTPDDを得て自力でここまで時間遡行をしたこと、今から四年と六
ヶ月後の未来にハルヒが死んだこと、その原因が解らず助けを得たいということ。

「あなたがTPDDを得ることは解っていた。でもあなたがここに来ることは想定していなか
った」
「なぜ俺が時間移動を出来るようになることを知っていたんだ?」
「おそらくそれはいずれ解るはず」
 長門がそう言うのならそうなんだろうな。それよりもハルヒを救うことの方が先決だ。
ハルヒが難病にかかった頃、長門は一体どこにいたのかは解らない。
それでも長門なら何らかの手段を講じて調べてくれるんじゃないか、と期待していた。
長門が世界改変事件以来、未来の自分と同期することを自ら制限したことはもちろん覚えている。だから俺はその制限を曲げてでも、なんとか原因をつきとめてくれないかと思っていた。いや、同期が出来なくても俺が長門を未来に連れて行けばいい。

だが返ってきた答えは意外なものだった。
「その時間平面上に私は存在しない」
「それって、情報統合思念体に戻ったということか?」
「ちがう」
 だったら何だ?
「わたしのメモリに蓄積されている情報には、地球上での生活が原因で多くのノイズが含まれている。情報統合思念体は不確かな情報を何よりも瑕疵とする。わたしは情報統合思念体への回帰を拒否された。つまりわたしは全ての役割を終え、存在価値を失った」
「…………」
 言葉が出なかった。
 長門は情報統合思念体のために六年もの間任務を続け多大な貢献を果たした。
少なくとも俺が知る限りTFEI端末の中で最も活躍したのは間違いなく長門だ。
そして長門は地球人の持つ感情を得ることになり、それが原因で情報統合思念体から拒絶されたということか。それってあまりにもひどい話じゃないか。
「私にはもう行くべきところも帰るべきところもない」
 ただでさえ重苦しい雰囲気の部屋がさらに重苦しい空気で占められていた。

 長門は立ち上がると俺に背を向け、
「さっき、この時間のあなたに別れを言った。今からわたしは、わたし自身の情報連結を解除する予定だった。これは決まっていたことのはずだった」
 俺は反射的に立ち上がり、長門に怒鳴った。
「自分を消すなんて言うんじゃねぇ!」
 こちらを振り返った長門を見て、俺は驚きを通り越して世界が暗転するような衝撃を受けた。

 長門の頬を一筋、大粒の涙がつたっていた。

「もう一度あなたに会えるとは思っていなかった。わたしは今、自分自身の思考が理解できない」
 長門は振り絞るような声で言った。
「わたしは消えたくない」
 声が全然震えていない。声だけ聞けば、いつもの長門だと思えた。静かな涙だった。俺を見据える瞳には涙とともに固い決意のようなものがうかがえた。
「長門、俺がお前を地球でずっと生きていけるように努力する。いいか、どこにも行くところがないなんて二度と言うんじゃないぞ」
 長門は目を閉じゆっくりと肯いた。涙が両方の頬を伝い、あごから落ちた。その涙は床にポツポツと花を咲かせた。

 ようやく落ち着きを取り戻した長門が口を開いた。
「涼宮ハルヒのことを詳しく聞きたい」
 俺はハルヒが突然倒れたこと、断続的に意識を失っていたこと、人類の医学レベルでは原因が解らなかったこと、倒れてから一週間足らずで命を落としたこと、などを話した。

「ハルヒを救ってやることが出来そうか?」
「それが可能かどうかは、実際に涼宮ハルヒが病気にかかった状態を見てみないと解らない」
「じゃあ今から行こう」
 俺は長門を連れてハルヒの元へと向かった。
ハルヒが命を落とす前日。
俺と長門は知覚遮蔽モードでハルヒの病室へと赴いた。

ベッドに横たわるハルヒと傍に付き添う過去の俺がいる。

「どうだ、原因は解るか?」
 長門は無言でハルヒの顔を覗き込んだ。表情が少しこわばったように思えた。
一分ほどそうした後、長門はようやく顔を上げた。
「…………」
 しばらくの沈黙の後、
「……怒らないで聞いて欲しい」
「どういうことだ?」
「…………」
 俺が承諾するまでは話しそうになかった。
「解った。言ってくれ」
「……原因は」
 長門は言葉を区切りながら話し始めた。ひどく話しづらそうだ。
「……情報統合思念体。急進派によるもの」
「なんだって?」
 急進派とは、朝倉のいた物騒な派閥のことか?
「情報統合思念体は混乱している。各派閥の間で激しい駆け引きがおこなわれている。今では、元の急進派が主流派となりつつある。おそらくは……」
 と前置きしたうえで、
「自律進化の可能性を得たがゆえに、未来との同期の制限を受けることになった情報統合思念体急進派は、さらなる制限を受けることに対する予防措置を講じたと考えられる」

「結局のところ、自律進化の可能性っていうのは何だったんだ?」
「情報統合思念体が得た自律進化の可能性とは、時間次元上の制限を課せられることと同義だった。つまり時間の概念を得ることが自律進化のきっかけだと情報統合思念体は判断した」
「つまり、未来が解らなくなることが、進化にとって重要だったってことか?」
「そう」
「それは解った。結局ハルヒが死んだ原因は何なんだ?」
「これは涼宮ハルヒに起こる身体的変化をトリガーとした時限装置。変化が起こった瞬間に涼宮ハルヒの生命活動が停止するように仕組まれていた。今こうして生命活動を維持し続けているのは本来ならあり得ないこと」

身体的変化? ハルヒに何があったんだ?
「涼宮ハルヒの能力は既にそのほとんどが失われている。急進派は第二の涼宮ハルヒの出現を危惧し、涼宮ハルヒの系譜を一切断ち切るための措置を施した。つまり……」
 長門はためらいがちに言葉を継いだ。
「トリガーは涼宮ハルヒの懐妊」

 一瞬思考が停止した。
「…………」
 長門は目を閉じ俺の反応を待っている。
「懐妊って……まさか……、俺とハルヒの子か?」
「……そう」
 血の気が引いた。頭の中が真っ白になる。
次の瞬間には、俺は全身の震えを感じていた。
体温が急速に上昇する。拳を握る。掌が熱い。
さっきの長門との約束など、俺は既に忘れていた。
俺は怒りにまかせて叫んでいた。この病院の防音設備のよさに感心する。この後、当直の看護婦の一人でも文句を言いに来るだろうと思っていたが誰も来なかったからな。
知覚遮蔽がされていなければ、おそらく病院中に響き渡る声で。
今までの人生でこれほどの強烈な怒りを覚えたことはなかった。
頭がどうにかなりそうだった。
ひとしきり叫び続けた俺は、糸の切れた操り人形のように、病院の冷たい床に崩れ落ちた。
まだ息が荒い。
「ごめんなさい……」
 長門、お前が謝ることじゃないんだ。頼むから謝らないでくれ。でないと、俺はお前まで憎んでしまいそうになる。
長門は目を閉じたままうつむいていた。微かにだが長門が震えて、また涙を流したのが解った。
俺には長門が長門なりに、俺への謝罪と思念体への怒りを表現してるように思えた。

 俺は長門を自分の住まいに連れて行き、作戦を練った。
「ハルヒの死を回避するためにはどうすればいい?」
「涼宮ハルヒへの時限装置が仕掛けられたのは第二の情報爆発のおよそ一ヵ月後。涼宮ハルヒから時限装置を取り除くのは私の能力では不可能。巧妙な仕掛け。取り除こうとした時点で涼宮ハルヒの生命活動は停止する」
「情報改変能力で、未来のハルヒの病気をなかったことには出来ないのか?」
「私の能力では涼宮ハルヒの能力を借りたとしても、一年以内の改変しか出来ない。その範囲内で原因を取り除いたとしても、急進派はもう一度時限装置を仕掛けることを試みるはず」
「他に方法はないのか?」
「原因を作り出さないようにするのが最も確実であり、それしか方法はないと思われる。時限装置を取り付けさせないようにする。つまり」
 長門は俺が想像もしていなかったことを淡々と言った。でも、北極海の氷よりも冷たそうな瞳からは、涙がどんどんあふれて、あごからぽつりぽつりと静かに落ちていた。

「涼宮ハルヒの情報改変能力を使って、情報統合思念体を消滅させる」
 そう言えば長門は以前世界を再構築したときにも同じことをやった。
「お前、それでいいのか? 情報統合思念体はお前のお仲間じゃないのか?」
 長門は言い切った。
「既に私は情報統合思念体と決別する覚悟は出来ている」

 卒業式の三日前に起こった第二の情報爆発。春先を思わせる季節外れの暖かさが不穏な空気をことさらに際立たせていたあの日に俺たちは飛んだ。
「侵入する」
 モノクロームの世界のあの場所で、今まさにハルヒによる第二の情報爆発が始まろうとしていた。それは俺とハルヒの二度目のキスにより起こったのだ。
長門のプランは、この情報爆発の瞬間のハルヒの力を借りて、時空改変により情報統合思念体を消滅させることだった。
「もうすぐ始まる」
 長門の言葉の直後に俺は激しい振動を感じた。情報爆発が始まったのだ。
TPDDを得た今なら解る。この時空振動がいかに大規模かということを。
長門が情報統合思念体の抹消作業に入る。

片手を上げ、空間を掴み取るような動作をした。

「お待ちなさい」

 俺たちの背後から、声が聞こえた。振り返る。
そこには明らかにこの場所には似つかわしくない姿の老人が笑みを浮かべていた。
「危ないところでした。あと数秒発見が遅れていたら、取り返しのつかないことになっていましたな」
「誰だお前は」
「長門君、説明してさしあげなさい」
 長門を見た。長門の無表情の中に驚きの色が見える。
「……情報統合思念体主流派の指導者であり、情報統合思念体の全てを司る統括者。わたしの創造主」
 なんだって?
「そう言うあなたこそどなたですかな? 朝倉君の報告とも少々違うようですが……まあよいでしょう」
 何のことだ?
「どちらにせよ、涼宮さんを殺したことであなたが動くのは想定外でした。あれは誠に申し訳なかった。私どもの急進派の勇み足でしてね」

 落ち着いた口調で老人は続けた。
「急進派は、どうやらあなた自身には何の力もないということで見逃したようですが、かえって仇になりましたな。まあ彼らも必死でしてね。どうかご理解いただきたい」

「てめぇ、人一人、いや二人殺しておいて、なんていい草だ!」
「おやおや、あなたがたも私どもの朝倉を自分達の都合で亡き者にしたはずですが」
「それとこれとは話が違うだろうが!」
「まあ、あなたと罪の定義について話しても詮無きことです」
「何しにきやがった」
「私がやって来た理由は当然お解りのはずですが。もったいぶってもしょうがありませんな。もちろん、あなたがたがやろうとしていることの阻止です」
「元はと言えば、お前らが蒔いた種じゃねぇか!」
「議論の余地はありませんな。ではそろそろ始めさせていただきましょう」
 老人が、先ほどの長門と同じように右手を上げた。
「まずい」
 長門が呟くように言った。
「どうした長門」
「涼宮ハルヒの力を逆用される。止められない」
 次の瞬間、俺は全身でその意味を知った。
「これは……」
 俺は戦慄していた。これから起こることは、今ハルヒがおこなっている時空改変ともまるで桁が違う。
過去一年間の時空改変なんていう生半可なものじゃない。全宇宙の、遠い未来の歴史までもが一気に塗り替えられるような、超弩級の時空振動を俺は感じていた。
「これは我々にとっても大きな代償を伴うこと。これから涼宮さんの第一の情報爆発がなかった世界に改変し、我々が持つ涼宮さんに関係する記憶を一切抹消します。我々はこれが最善の策だと考えました。我々は自律進化の可能性よりも現状維持を選んだということです」
「お前らは……あれだけ自律進化の可能性を待望してたじゃねぇか」
「自律進化の可能性を得ることで、我々の存続自体が危ぶまれました。皮肉なものです。我々があれだけ望んだことが、逆に我々をここまで混乱に陥れることになるとはね」

 老人は片手を上げたまま、話を続けた。
「あなたがたのように涼宮さんの力を利用し我々に危害を及ぼす存在がいる以上、本来であれば過去の涼宮さんを亡き者にすべきなのですが、あいにくそれはあまりにも危険でしてね。第一の情報爆発から能力を失うまでの涼宮さんには迂闊に手は出せません。それによって何が起こるか全く予想出来ませんからね。最悪の場合この宇宙が終わることも充分あり得ます。ならば、情報爆発以前の涼宮さんを消滅させればよいのですが、残念ながら恒久的時間断層のおかげで我々は一切手を出せません。涼宮さんも、無意識とはいえ見事な防御策を考えたものです。そういったわけで私どもは第一の情報爆発発生と同時にそれ以降の歴史を全て書き換えることにしました。涼宮さんの第二の情報爆発、つまり今ですな、この瞬間の涼宮さんの力を利用し世界を改変するのが最良だと判断したわけです」

 どこまでも勝手なことを言いやがって。
「第一の情報爆発の発生過程は私どもにも全く解りません。とはいえ、それは元々超自然的かつ奇跡的な確率でおこなわれたことと推測しています。おそらくはもう二度と情報爆発は起こらんでしょうな。ですが唯一懸念すべき存在、無視出来ない不確定因子について我々は検討しました。あらゆる可能性を考慮し、何事も一部の怠りなく遂行するのが我々の常でしてな。私どもの長門もあなたには大変お世話になりました。ですのでこれは非常に残念なことなのですが」
 老人はおだやかな笑みを崩さずにこう言った。

「あなたには今ここで消えてもらいましょう」
 老人が口元をわずかに動かしたその瞬間、突然俺の両腕が指先の方から輝きとともに粒子となって崩れ落ち始めた。朝倉のときに見た情報連結解除ってやつだ。
それがまさか俺の身に降りかかろうとは。不思議と痛みは全くない。
足元に目をやると、両足も同様の状態になっていた。

しばし呆然として両手を眺めている俺と老人の間に長門が割って入り、俺の腕の残っている部分を手に取るといきなり歯を立てた。
以前に噛まれたときとは違う。なぜなら普通に痛い。
そのおかげか崩壊のスピードが幾分遅くなった。が、いまだに崩壊は収まらない。
「間に合わない」
長門は俺の腕の、まさに崩壊最前線の部分に自分の手を差し出し、呪文の高速詠唱を始めた。
今度は成功したのだろう。崩壊のときとは逆再生のように手足が情報連結されていく。
だがそれで俺は全く安心出来なかった。
俺の手足が再生されるのと同時に、今度は長門の手足が崩壊しはじめたからだ。

「おやおや長門君。君は我々を裏切り、自らの身を呈してまで彼を救おうというのですか。私には君の行動が理解出来ませんな。やはり君を思念体に回帰させなかったのは正解だったようですね」
 老人の微笑みがいまいましい。くそっ。
「逃げて。出来るだけ遠くの時空間へ。あなたが今ここで消えれば涼宮ハルヒが蘇る歴史は永遠にやってこない」
 身代わりになったお前を残して、俺だけ逃げるなんてことが出来るか。
長門は既に両手両足はおろか、胸のあたりまで崩壊が進んでいる。朝倉のときとは崩壊のスピードがまるで違う。
「早く!」
 長門が今まで聞いたこともない大声で叫んだ。

俺は覚悟を決めた。
「長門、俺は必ずお前を復活させる。もちろんハルヒもな。そして俺は必ず戻ってくる!」
 どこでもいい。こことは違う、なるべく遠くの時空へ。座標設定なんぞしてる暇はない。
例のグラっとする感覚がきた。時間移動の開始。
そして、長門はついに俺の目の前で完全に消滅した。
「長門!」
 そう叫んだ瞬間、突然の閃光に目を閉じる。
「あなたを消し去るのは残念ながら失敗のようですね。ですがせめてこれくらいの対処はさせていただきましょう」

老人の言葉とともに頭が割れるような痛みを感じ、そして俺は意識を失った。



第 三 章


 太陽の光で目が覚めた。
微かににせせらぎが聞こえる。どうやら俺は眠っていたようだ。
太陽の位置からすると、昼前か昼過ぎあたりだろうか。
ちょうど木影になっていた俺の顔に日光が差してきていた。
季節はどうやら真冬のようだった。一月か二月か。空気が肌を刺すように冷たい。

――ここはどこだ?
起き上がり、辺りを見回してみる。少し頭が痛む。
小川と遊歩道に挟まれた、並木が植えられている芝生の上に俺はいた。
公園のようだった。見慣れない風景。いや、見慣れないというのとは何か違う。
奇妙な感覚。

――今はいつだ?
腕時計を見た。それは二月二十四日の午後二時五分を表示していた。
俺の格好は春先を思わせるような軽装だった。
真夏の格好よりは幾分マシとは思ったが、やはり少々寒さが身にしみる。
何だ、この違和感は?
そうして俺は、場所や時間よりも重大な疑問に思い当たった。

――俺は誰だ?
思い出せなかった。
冷静に考えてみたところ、どうやら俺は記憶喪失という状況におかれているようだった。
俺は目の前にあった遊歩道のベンチに腰掛け、所持品を調べてみた。
あったのは財布と手帳。
身につけているものはデジタル表示の腕時計とサングラス、それに季節外れの衣服。
財布に何か手がかりになるものが入っていないかと調べてみたが、俺の身元を確認出来るものは何ひとつない。

手帳も同様だった。
手帳のスケジュール欄の書き込みは九月十三日で始まり十月二十日で終わっていた。
それはそもそも予定ですらなく、以下のような意味不明の単なるメモ書きだった。

9月13日 29D03H48M
9月14日 29D03H57M
9月15日 29D04H08M 335×24×60÷20=24120
9月16日 29D04H18M
       ・
       ・
10月14日 01Y01M10D
10月15日 01Y01M12D
       ・
       ・
10月20日 06Y00M05D

こういった書き込みが十月二十日まで一日も欠かさず毎日続いていて、十月二十一日の日付には赤い丸印が記されていた。それ以降の日付は空白だった。
一体何だこれは?
アルファベットはおそらく年月日や時分を表していて、数式にも24×60という数字があ
ることから、何か時間に関係することを書き留めているように思える。

これは俺が書いたものなのか?
試しに同じ字を手帳に書き込んでみた。同じ筆跡。俺の字に間違いないようだった。
せめて、日記のようなものでも書いておいてくれればありがたいのだが、どうも俺にはそう
いう習慣はないらしい。
手帳のページを繰ると、後半のメモ欄に携帯電話の番号と住所が書かれてあった。
その番号も住所も、俺には全く心当たりはなかった。

俺は今まで何をやっていたんだ?
何となくだが、俺には何かしなくてはいけない重要なことがあったように思える。
だが、それは何だ?

足元を眺めながら俺はしばらく考えてみた。三十分ほどそうしていたが、思い出せることは何もなかった。
とにかく今の俺にとって必要なのは、何でもいいから情報を仕入れることだ。
公園を出てしばらく歩いた俺はコンビニエンスストアを見つけ、新聞を買ってみた。

日付はやはり二月二十四日。
手帳のスケジュールの日から、およそ四ヶ月が経過している。
手帳を四ヶ月間全く記入しなかったということだろうか。
それまでの日付は一日の抜けもなく毎日埋っているにもかかわらず。
だが、俺が四ヶ月以上記憶とともに意識を失っていたという推測はさらにありえないことだった。

一体どうなってんだ?
新聞の記事を読んでも特に手がかりになるようなものは見出せなかった。記事のほとんどはあまり理解出来なかったしな。俺の頭はどうもあまり出来がよくないらしい。
そしてまた途方に暮れた。

公衆電話を見つけ、手帳に記されていた番号に架けてみたが、現在その番号は使われていないというメッセージが返ってくるだけだった。
寒さに耐えかねた俺は、商店街の洋服店で適当な上着を買い、見覚えのある風景でもないかと、周辺を歩き回った。

商店街を出て二時間ほど歩いただろうか。辺りが暗くなり始めている。
腕時計の数字は夕方の五時過ぎを表していた。
行くべきところも解らず、ただ呆然と歩いていた俺は、いつしか人気のないところに迷い込んでいた。
いや、迷い込むという表現は適切じゃないな。
今の俺には知っている場所がどこにもなく、つまり俺は常に迷っているのだ。

 不意に、右奥の路地の方から、口論をしているような声が聞こえた。
路地を覗いてみる。数人の男と、中学生と思われる長髪の少女がそこにいた。
少女の進路前方を塞ぐ男たち。三人だ。しばらく何かを言い合った後、男の一人が少女の肩を強引に掴み、少女を拘束しようとする。
少女は素早い動作でその男の手首を取ると、脚の付け根まで届こうかという長髪がふわりと揺れた次の瞬間には、男が少女の後方に吹っ飛んでいた。合気術かあるいは柔術か、どちらにせよ凄まじい身のこなしだ。

 だが、投げられた男も他の二人も、それでひるむような気配はなかった。
じりじりと少女との間合いを詰める。
俺は急いで元の道に戻り、置かれてあったゴミバケツを見つけるとそれを左脇に抱えた。
路地まで助走をつけ、角を曲がる遠心力も使って、それを男たちに思いっきり投げつけた。
空中で蓋が取れ、逆さになったゴミバケツは内容物を散乱させながら放物線を描く。
蓋が手前の一人に、本体が奥にいた一人に命中。ゴミは三人に――厳密に言えば少女を含む四人に――漏れなく降り注いだ。我ながら見事なスローイングだ。
動きの止まった男三人がこちらを睨んだ。俺はなんとなくだがリーダー格と思しき男に見当をつけ、そいつを睨みかえした。どうやら俺は案外胆の据わったやつらしい。
男たちが襲い掛かってくることを予想して身構えた俺だったが、男たちは顔を見合わせると、俺とは逆方向に走り去っていった。

「助かったよ、ほんとありがとっ! あははっ、臭うなこのゴミっ!」
 少女はゴミを払い落としながら笑っていた。今さっきあんなことがあったというのに、全く
動じていないようだ。俺以上に胆が据わっている。
「今のは知り合いか何かか?」
「いやっ、全然っ」
「じゃあ、なんだってあんな目に遭ってたんだ?」
「実はねっ、前にもあったんだよこういうこと。でもさすがに今のは危なかったよ。男三人がかりはあたしもツラいからさっ」
 襲われやすい体質か何かなのか? などと思っている俺に少女が言った。
「ほんと助かったよっ! お礼がしたいんだけど、時間はあるっ?」
 時間があるのかどうかは実際のところ俺自身にも解らなかったが、俺には他に行くべき場所も思い当たらず、少し迷ったがそれに応えることにした。

 少女の家に案内された俺は、ただただ驚いた。門から家が見えない。左右を見回すと塀が遠近法に従って延々と続いていた。ここはどこかの武家屋敷か何かなのか?
一体どんな悪いことをすればこんな家に住めるんだろう、などと考えていた俺に既視感のような不思議な感覚が襲ってきた。そしてそれは一瞬で過ぎ去っていった。
残念なことに、やはり思い出せることは何もなかった。
家屋の玄関前で、当主と名乗る初老の男性が向かえてくれた。

「娘から事情は聞きました。危ないところを助けていただいたそうで、私からも礼を言います。本当にありがとうございました。こんなところでは何ですから、とにかく中へ」

この屋敷から察するに、さっきのはおそらく誘拐未遂事件か何かだったのだろう。
俺は身代金の額を想像しようとしたが、途方もない数字になりそうですぐさまあきらめた。
屋敷の応接に通された。家屋は日本風だがこの部屋は洋風の造りだった。
当然ながら、一般家庭のリビングを三つか四つばかり足したくらいに広い。

ゴテゴテとした飾りや置物などは一切なく、一枚の絵が掛けられているだけのシンプルな部屋。そうしたものがなくともこの部屋が充分に手のかかったものであることは一目で解る。なんと言うか、滲み出る品格のようなものがこの部屋からは感じ取れた。

 純和風の衣服に着替えた少女は腕や髪を鼻に当て、匂いを調べていた。あれだけ髪が長いとさぞかし洗うのも大変だったろうな。ゴミバケツを投げつけたのはさすがにやりすぎだったか。
「失礼ですが、この近くにお住まいの方ですか?」
 当主からの質問だった。俺の服装からそう思ったのだろうか。上着を買ったとはいえいささか季節外れの感は否めない。家の周りの散歩か、あるいは近所に買い物にでも行くような格好に違いなかった。
 だが、俺は少し考えて旅行者ということにしておいた。
記憶を失っているという説明をすんなりと信じてもらえるようには思えなかったし、近所の話題を振られても困る。
今思えば俺は記憶を失ったことについてかなり楽観的に考えていたのだろう。すぐにでも記憶は戻るだろうと。

少女はニコニコしながら俺の返答を聞いていた。
「でしたら、もしご都合がよろしければしばらく当家に滞在されてはいかがですか。海側や少し西側の方に行けば、見るものもたくさんありますよ」
これは願ってもないことだった。
俺には行くべきところも解らなければ、帰るべきところも解らないのだ。
「そうしなよっ、お兄ちゃん!」
 少女の言葉が、なぜか心地よく響いた。
不思議な懐かさとでも言おうか、そんな暖みがあった。
俺はありがたくその提案に甘えることにした。
そうして俺は、詳しくは書かないが今までに食べたこともないであろう豪華な夕食をご馳走になり、詳しくは書かないが小振りの銭湯としてすぐにでも営業出来そうな客用の浴室で疲れを取り、詳しくは書かないが老舗の高級旅館に泊まるときっとこんな部屋なんだろうという客間に案内された。

しばらく今日一日のことを振り返っていると、少女がやってきた。
「お茶持ってきたよっ!」
 この娘は、一日中こんなにテンションが高いのか?
「いやー、おやっさんにこってり絞られちゃったさっ。いつもはあんな時間にあんな道通らないんだけどねっ。今日は学校でやることがあって特別なのだっ!」
「やっぱりあれは誘拐とかそういう類のものだったのか?」
 少女は俺の持っていたサングラスに興味を示し、手渡したそれを眺めながら話しを続けた。
「多分ねっ。ここいらも物騒になったもんだよ。前にもあったってのは三ヶ月くらい前。ほんと危なっかしくておちおち学校にも行けやしないよっ」
 会話の内容とはうらはらに、少女が楽しそうにしているのは気のせいか?
「まあそんなこと気にしすぎてもしょうがないっさ!」
 当主も少女も、本当に気持ちのいい人たちだった。
俺は自分が嘘をついていることに関して、申し訳ない気分になっていた。
少女はしばらく話したあと、また明日と言って席を立った。
去り際に、
「お兄ちゃんって何だかちょっと変わった人だねっ」
 と言い残して。

彼女は俺にも解らない何かを見抜いたのだろうか?
それについてしばらく考えてみたが、早々にあきらめて俺は床についた。さすがに今日は色々と疲れた。


雪が舞っている。俺はベンチに座っている。見覚えのない風景。
辺りを見回す。遊歩道。ベンチ。外灯。柵に囲まれた茂み。
どこからか少女の泣き声を耳にした。
声を頼りに歩く。少し開けた場所に出た。ブランコや滑り台がある。
物憂げにうつむいた少女が一人、ブランコに腰掛けている。
少女は泣いてはいない。にもかかわらず泣き声はまだ聞こえている。
わずかにブランコを揺らしながら、足元を見つめる少女。
何かをじっと考えているようだ。
やがて静止するブランコ。
少女は静かに立ち上がると、うつむいたまま立ち去っていく。


目が覚めた。奇妙な夢だった。見覚えのない風景。公園だろうか。
あれはこの家の少女ではなかった。俺の失われた記憶に関係しているのだろうか。

朝食の後、俺は初老の当主に、少し時間をいただけないかと願い出た。
話したいことがあると。
 あまり長くは時間を取れませんが、という前提で当主の書斎に通された俺は、これから少し奇異な話をしますが驚かないで聞いて欲しい、と前置きをしたうえで自分の身の上を正直に話した。
昨日の昼過ぎに、川沿いの公園で目を覚ましたこと。
そこがどこなのか、今がいつなのか、自分が誰なのかすら解らなかったこと。
自分の所持品から、自分の身元を調べようとしたが、全く手がかりがなかったこと。
手帳に電話番号と住所が書いてあったが、電話は繋がらず、その住所にも全く心当たりがなかったこと。

しばらく当てもなく歩いていると、偶然少女と男たちが争っている場面に出くわしたこと。
昨日はなんとなく記憶喪失であることを言わないほうがいいように思え、嘘をついたこと。
そして、自分には何かやらなくてはならないことがあったと思えること。
「それが事実だとしたら興味深い話ですな」
 当主はにこやかに話した。
「こうして今話しているのも何かの縁。もしよろしければあなたの身元調査に協力させていただきますが。私もそれなりの情報網を持っておりますので、きっとお役に立てると思います」
「今の私には頼るものが何もありません。恐縮ですが、お言葉に甘えさせてください」
「ええ、ええ。どうかお気になさらずに」
 当主は一呼吸おいて、
「では、まず私にも所持品を確認させていただきたいのですが。包み隠さずに申し上げますと、身元の解らない人物を当家に滞在させるとなると、こちらとしてもそれなりに調べさせていただくことがあります。ですがあくまで形式的なものだと思ってください。私もこういう立場の人間ですのでそれなりに人を見抜く目を持っています。私にはあなたが何かを企むような人間には思えませんので」
 当主の要求は当然のことだ。早速俺は、財布、手帳、それに腕時計を差し出した。

 しばらくの間、それらを検分した当主の見立てによれば、財布、手帳に関してはありふれた市販品で、特に手がかりになるようなものは見当たらない。
手帳に書かれていることも、電話番号と住所を除けば特に身元の解るようなことは書かれてはいない。
腕時計は一般的なクォーツ時計ではなく電波時計であるが、数万円あれば買える市販品とのことだった。製造番号の刻印などはなく、やはり手がかりにはなりそうにない。
 そして当主は、疑問を正直に語った。
「あなたの所持品には不自然さが残ります。あなたは何らかの理由で敢えて自らの身元が所持品から判断されないようにしていると見受けられます」
 それに関しては俺も同じ意見だった。大抵の場合、財布の中には身元が判断出来るようなものが必ず入っているはずだ。でないと、ビデオテープ一本借りれやしない。
「もしかしたら、あなたは諜報活動のようなことを生業とする方なのかもしれませんね」
 当主は冗談っぽく言った。
仮にそうだとしても悪いようにはしませんので、記憶が戻られたら必ずお知らせください、とも。
「ひとまず電話番号と住所の線で調査してみます。あなたは調査が終わるまでは遠慮なく当家にご滞在ください」
「重ね重ねお礼申し上げます」
 俺は深々と頭を下げた。
「いえいえ、もとはと言えば、娘を救っていただいた恩がありますし。それとあなたが記憶喪失であることを家人には話しておきたいのですが、よろしいですかな?」
「ええ、構いません」
 ひとまず、俺は当面の宿を確保することが出来て、胸をなでおろした。
その日は当主の了解を得てまた周辺を歩き回った。
だが今日も手がかりは何も得られなかった。見知らぬ街並み、見知らぬ人々。

屋敷に戻った俺は、これからお世話になる身で客間を使わせていただくのは恐縮なので、出来れば別の部屋に移してもらえないかと当主に頼んだ。
広すぎる部屋は今の俺の身分ではなんとも落ち着かなかった。
「そうおっしゃるのであれば、こちらは全く構いませんよ」
 当主は快諾し、俺に離れの部屋を用意してくれた。
「この部屋は先代が時々使っていた部屋でして」
 俺がいかにも恐縮しきりなのを気の毒に思ったのか、当主は、
「もしよろしければ、ご滞在のあいだ娘の学校への送り迎えをしていただけると誠にありがたいのですが。いかがでしょうか?」
 と提案してくれた。
 俺は、是非そうさせてくださいと即答した。断る理由など欠片もない。

「やっほーっ! お兄ちゃん記憶喪失なんだってねっ。どおりでおかしいと思ったさっ!」
 当主が去ってしばらく後、今度は少女がやってきた。
「俺におかしなところなんてあったか?」
「だってお兄ちゃんの言葉って、アクセントとかがうちらと一緒じゃない。明らかにこの地方の言葉だよ。それで旅行者ってのは不自然さっ!」
 なるほど、そう言われてみれば確かにその通りだった。実に頭のいい少女だ。
だとすれば、やはり俺はこの近辺に住んでいたのだろうか。
ところで、君の言葉は周りの人とはかなり違うと思うぞ。
「あははっ、そうかいっ?」
 あいかわらず、屈託のない笑顔。
「でも、おかしなのはそれだけじゃないんだけどねっ。それは記憶が戻ったらまた聞かせてもらうよっ」
 少女にはまだ何か含むところがあるらしい。
「じゃあ、明日からよろしくねっ!」

 次の日から、俺は少女とともに登校し、記憶を取り戻すために街中を散策し、少女とともに下校するという日々を過ごした。
「あー、お兄ちゃん、読みたい本があるから、悪いけどお迎えのときまでに買っておいてくれないっかな?」
「今日は、ちょっと別の道で帰りたいんだけど、大丈夫っかな?」
「スモークチーズ買っておいてくれないっかな? あたしの大好物なんだっ!」
「昨日のスモークチーズより別の店の方が美味しいから、今日はちょっと遠出してもらっていいかなっ?」
 と、俺に色々と注文をつけてくれた。
おそらく彼女なりに俺を色々なところに出向かせて、少しでも記憶を思い出せるきっかけになるようにと考えてくれているのだろう。
単なるお使い要員なのか、スモークチーズにうるさいだけかもしれないが。
そして、結局のところ俺は記憶を取り戻す糸口すら全くつかめなかった。

また夢を見た。数日前と同じ、雪の舞う公園。
どこからか聞こえてくる少女の泣き声。ブランコに佇む少女。

ある日の朝食後、当主に呼ばれた。調査の結果が出たということだった。
「結論から申し上げますと、芳しくありませんでした。まず電話番号ですが、どうも今までに一度も使われていない番号のようです。あれは電話番号ではなくて何か別の意味を持つものかもしれませんね」
 電話番号に似せた暗号か何かということだろうか。
俺はやはりスパイとかそういった職業の人間なんだろうか。
「住所は実在しましたが、あなたとの関連性は全く見出せませんでした。住人の家族、親戚だけでなく、友人や知り合い関係なども洗ってみましたが、行方不明者や旅行者あるいはこの近辺に住んでいる者、つまりあなたに該当しそうな人ですな、そういった方は見つけられませんでした」
 当主は残念そうに首を振り、
「これであなたの所持品からの調査の線は断たれたということになります」

俺は率直な疑問を率直に訊いた。
「俺はいつまでここにいてよいのでしょうか?」
「実は、娘を誘拐しようとした連中がほぼ特定出来まして。ですがまだ確証は得られていない状態で、それが解るまでは娘も狙われ続けるということになります。よろしければ、しばらくの間は娘のボディーガードを続けていただけるとありがたいのですが。その後のことはまたそのときに考えましょう」
「申し訳ありません。記憶が戻りましたらいつか必ずお礼をさせていただきます」
「いえいえ、こちらとしても大変助かっておりますので。娘もあなたにはよくなついているようですし。実を言うとこれまでも何度かボディーガードを雇おうとしたことはあったのですが、いつも娘に断られて困っていたものですから」
 お気遣い痛み入ります。俺は頭を深々と下げて、書斎を後にした。
もしこのまま記憶が戻らなければ、いずれこの家を出なければならないだろう。
いつまでも当主の好意に甘えるわけにもいかない。そうなれば俺は自力で生活の手段を考えながら記憶を取り戻す努力をしなければならない。
俺が自由に使える時間はあまり残されていないだろう。
俺は、あの奇妙な夢にかけてみることにした。
書店で近辺の地図を買い、公園を調べ、印を書きみ、しばらくの間それらを重点的に廻ってみることにした。
遊歩道。ベンチ。外灯。柵に囲まれた茂み。そしてブランコ。
どこの公園にもあるようで、しかし夢の情景を満たしているものはなかなか見つからない。
何よりも、夢で見た風景である。それを鮮明に思い出せるはずもない。
この近辺の公園だという保障はどこにもなかった。だが、俺にはこれ以外に記憶を取り戻すための手がかりは何一つないのだ。

三日間かけて、俺は地図上の公園全てに足を運び、さらに元の地図を中心として周囲八箇所の地図をあらたに買い求め、二週間かけてそれらを踏破した。
だが、結局俺の夢に該当する公園は一つも見つからなかった。
もしかしたら見落としがあったのかもしれない。
あるいは、ここよりもっと離れた場所にある公園なのかもしれない。
俺は途方に暮れていた。何しろ公園が本当に俺の記憶を呼び覚ますためのきっかけになるのかどうかすら解らないのだ。

 俺がほとんど諦めかけていた頃、それは起こった。
ある日の昼過ぎ。俺は私鉄の駅前にいた。既にこの周辺には一度足を運んでいる。
駅前の道沿いには商店が立ち並び、北側には豪華そうなマンションが見て取れる。
俺はここ数日の間、念のためにと幼稚園や小学校に付随しているような公園を探し歩き、この日の午前中にそれら全てを調べ終わったところだった。
もはや打つべき手は何も思いつかなかった。

何の意図もなく予感もないまま、線路沿いの通りから人気のない路地に入った。
そして角を曲がってすぐのところにそれはあった。
「あれ……、こんなとこに公園なんてあったっけか?」
疲れのあまり思わず独り言が出る。
既に肉体的にも精神的にも疲労はピークに達していた。
地図と照合する。載っていない。公園の造りから、比較的新しく出来た公園のように思えた。

やれやれ、新しい地図を買ってもう一度洗いなおす必要があるかもな。
俺は大した期待もなくその公園に入った。
遊歩道、ベンチ、街灯の雰囲気などが夢の場所に似ているように思えた。
だがなにしろ狭い公園だった。ブランコや滑り台がないのは一目で解る。
俺はベンチに腰掛け、頭を抱えながらこれからのことを考えていた。
何も思い浮かばなかった。そして俺はいつの間にか眠っていた。

夢を見た。いつもの公園。雪が舞っている。
少女の泣き声とともに、ブランコの音がどこからか聞こえてくる……

目を覚ました。薄暗がりの公園には外灯の明かりが点っている。
寒い。雪が降り始めていた。
山側から吹き降ろす風が頬を冷やす。
どこからか少女の泣き声が聞こえる。
ブランコの音が鳴り続けている。

待て?
なんだって?
泣き声? ブランコ?

あらためて耳を澄ませる。夢の続きでも幻聴でもない。
それは微かではあるが、確かに聞こえる。
俺はブランコの音を頼りに走った。
その公園は、樹木が植えられている茂みを挟んで、二箇所にエリアが分かれていたのだ。俺が寝ていたベンチがある一画とは反対側に、確かにブランコと滑り台が置かれていた。 そして、ついに俺はブランコに座る憂鬱げな少女を発見した。

夢のとおり、彼女は泣いていない。だが泣き声は依然として聞こえてくる。
俺の姿に気づいたのか、少女は、
「あんた、さっきベンチで寝てた人でしょ。こんなとこで昼間から居眠りなんて、大人ってのも随分暇なものなのね」
 随分と口の悪いガキだな、そう思いながらも俺は話しかけた。
「お前こそ、こんなとこで一人で何やってんだ?」

 しかし、そいつは俺の問いを無視して言った。
「あんたどう思う? 世界ってつまらないものだと思わない? あたしはもうこんな世界うんざりよ。誰も私の話なんか聞いちゃいないわ」
 お前こそ俺の話を聞いちゃいないだろうが。
「どうしたんだ? 家か学校で何かあったのか?」
「あんたは……自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことある?」
 何を言い出すんだ、こいつは?

「あたしね、この前野球場に行ったの。家族に連れられて……。あたしは野球なんかには興味ないんだけど。でも着いてみて驚いた……」
 突然俺は、頭の中を揺さぶられるような違和感を覚えた。
「……日本の人間が残らずこの空間に集まってるんじゃないかと思った……」
 誰かが俺の頭の中で、何かを叫んでいる。
「……実はこんなの、日本全体で言えばほんの一部に過ぎないんだって……」
 少女は話を続ける。頭の中の叫びは次第に大きくなり、はっきり感じ取れるようになっていた。

言葉の主は繰り返していた。『思い出せ』と。
「……世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送ってる人だってきっといるわ。でもそれがあたしじゃないのはなぜ?」
 少女は一呼吸置いて、俺に質問を投げかけた。
「あんた、宇宙人っていると思う?」
 唐突に頭の中に一人の少女の顔が浮かんだ。短髪の、無表情で儚げな印象を与える少女。
「未来人は? 超能力者は?」
 短髪の少女の隣に、無邪気に微笑む栗色の髪の美少女と、爽やかに如才なく微笑む美少年の二人が加わった。
 思い出せ、思い出せ。
 あらためて俺は目の前の少女に目をやった。
 腰まで届く、長くて真っ直ぐな黒髪、それにカチューシャ。
 意思の強そうな、大きくて黒い瞳。
 俺は何かを思い出そうとしている。
「お前の……、名前を教えてもらっていいか?」
「そんなこと聞いてどうすんのよ」
 俺の真剣な表情を見てあきらめたのか、少女は言った。
「まあいいけど。あたしの名前は、涼宮……」
 俺は無意識に立ち上がって、叫んでいた。

「ハルヒ!」

 ハルヒはブランコから立ち上がり、鋭い眼光でもって俺を睨みつけた。
「ちょっと……なんであんたがあたしの名前知ってるのよ?」
 俺はその問いには答えず、興奮しながら続けた。
「宇宙人? そんなのは山ほど知ってるぞ。幽霊みたいにネットワークやらシリコンやらそういうのにとり憑く奴だっている」
 いきなり何を言い出すのか、という表情で俺を見つめるハルヒ。
おそらくさっきの俺の表情がこんなだったに違いない。
「未来人? ありふれてる。現代人よりはるかに多いぞ。今より未来に生きてる奴らはみんな未来人だ」
 ハルヒは呆気に取られていたが、そんなことはお構いなしに俺は続けた。
「超能力者? いくらでもいるぞ。奇妙な集団を作って奇妙な空間で奇妙な玉になってるような奴らがな」
 ハルヒは呆れを通り越して訝しげな表情でこちらを見ていた。
俺は言った。ハルヒの目をじっと見据えて。
「いいか、よく聞けハルヒ。いずれお前はそういった連中の中心になって、好き放題、勝手気ままな人生を送るんだ。この地球、いや全宇宙の中でもそんなことが出来るのはお前だけだ」
 ハルヒは目を見開らき、あらためて俺の表情をうかがっていた。
いつの間にか泣き声は聞こえなくなっている。
「だから周りのことなんか気にすんな。お前はお前が信じる道をただひたすら突き進めばいい。しばらく辛い時期があるかもしれんが、俺が保障する。お前は絶対に幸せになる。だから頑張って生きてくれ」

 ハルヒは再び顔をうつむかせ、何かを考え始めた。
しばらくそうした後ハルヒは勢いよく俺を仰ぎ見た。
「よくわかんないけど覚えとくわ!」
そこには、俺が英語の授業中に初めて見たときと同じ、ハルヒの灼熱の笑顔があった。やっぱりお前にはその表情が一番よく似合う。
「話聞いてくれてありがと!」
 そう言い残すと、ハルヒは俺がよく知る短距離走スタートダッシュの勢いで走り去った。
俺はハルヒの後姿が見えなくなるまで立ちつくしていた。
ハルヒよ、頑張って生きてくれ。
俺のためにも。

 こうして、俺は全てを思い出した。

 光陽園駅前公園から鶴屋家に戻った俺は、重要な話があると言って当主に時間を取ってもらった。
これからかなり奇異な話をしますが驚かないで聞いて欲しい、と前置きをしたうえで、俺は
話し始めた。

記憶が戻ったこと。
自分は十年先からやってきた未来人であり、詳細は明かせないがこの時空にいる俺はまだ小学生であること。
涼宮ハルヒという存在とその能力のこと。
宇宙規模的存在とそのインタフェース端末のこと。
俺よりはるか未来にいる未来人たちのこと。
ハルヒにより生み出される閉鎖空間、超能力者とその役割についてのこと。
そしてこれから自分はそれら超能力者を集めた機関を作らなければならないこと。

話し終えるのにざっと二時間はかかった。
俺はハルヒを救うために行動していることについては話さなかった。
それを説明するためには、情報統合思念体の企みについて話さなければならず、そうすると、俺がやつらと敵対する立場であることも明らかにしなくてはならない。

その事実を語ることについて俺は、慎重にならざるをえなかった。
結局のところ俺が当主に話したのは、俺が未来人であることに加え、俺が高校一年の時点で既に知っていた知識と、機関を作る必要があるということである。

当主は怒り出すこともなく、我慢強く話を聞いてくれていたが、その表情には当然の反応として明らかな困惑の色が見えていた。
「あなたの目に嘘は感じられません。それならば、あの電話番号についても納得がいきますからな。ですが、何か確証になるものがあるとよいのですが」
 今の俺にとって、この電波話を信じてもらうのにさしたる苦労は必要なかった。
俺は当主の目の前で時間移動をおこない、三日後の新聞を入手して、それを当主に手渡した。当主は三日後を待つまでもなく、その場で新聞の内容にざっと目を通しただけで、俺が未来人であること、そして俺の話が全て真実であることを確信したようだった。

 当主とは今の話を機密事項としてお互い他人に一切口外しない約束を取り交わた。
そして、当主は俺の機関立ち上げに全面的に協力する意向であること、詳細な計画を立てるためになるべく明日以降時間を取れるように努力することを表明してくれた。
結局俺は引き続き鶴屋家にお世話になることとなってしまった。
もはや俺には下げる頭も残っていない。
「いえいえ、私どもとしても地球滅亡の危機は避けたいですからな」
 当主はどこまでも気立てのいい人物だった。そういうところは確実に鶴屋さんに受け継がれている。

「お兄ちゃん、記憶が戻ったんだってねっ。おめでとっ!」
 離れに戻った俺に、将来の鶴屋さん――まあ今も鶴屋さんなのだが――がいつものテンションでお茶を持ってきてくれた。
 妹からお兄ちゃんと呼ばれることは長きにわたる俺の念願だったのだが、それがまさか鶴屋さんによって実現されるとは。
「ありがとよ」
 俺は笑顔で応えた。
「お兄ちゃん、名前なんていうのっ?」
 俺は既定事項に則るならばこの名前を告げるしかないと思い、素直にそれに従った。
「ジョン・スミスだ」
「あははっ! それってどういう冗談っ?」
 実に愉快そうに鶴屋さんは笑った。
「そういうことにしておいてくれ」

「まあいいさっ! でさっ、前に言ってたおかしなことだけど、聞いていいっかな?」
「ああ、なんでも聞いてくれ」
 俺はお兄ちゃんと呼ばれたこともあって、とても気を良くしていて、かつ気を大きくしてい
た。そして、俺は明らかに油断していた。
「ジョン兄ちゃんって、もしかして未来の人っ?」
 お茶を含んでいたら、それは間違いなく俺の口から霧散していたはずだ。またしても、そして前回以上に俺は腰を抜かした。動揺が隠せない。
「ま、待て、なんだってそういう風に思うんだ」
 満面の笑みを浮かべながら鶴屋さんは言った。
「だってお兄ちゃんのサングラス、割と有名なブランドだけど、それって今年の夏に初めて出る予定のモデルだよっ?」
 参った。俺が数週間かけて、まさしく偶然とも僥倖とも言える奇跡で得た真実を、鶴屋さんは俺と初めて会った日からお見通しだったとは……。
「あー、ええとだな……」
 考えながら話すのは未だに得意ではない。
「俺にはその、サングラスのメーカーに知り合いがいて、」
 鶴屋さんが興味深かそうに俺を眺めている。
「……それでだな、そう、たまたま運良く発売前の試作品を譲ってもらったんだよ、これが」
「へぇーっ」
 鶴屋さんの表情はとても楽しげだった。
「でもあのサングラス、随分とくたびれてたように見えたけど」
 確かに……ハルヒにプレゼントされて以来、ロクに手入れもしてなかったからな。
そして、俺はやはりこの方を騙し通せるほどの才覚が自分にはないであろうという事実を受け入れ、うなだれながら白状した。

「これは君のお父さんにしか話してないことだ。君のお父さんも含めて絶対に誰にも内緒にしておいてほしい」
「わかってるよっ! 今までもこれからも誰にも言わないさっ。こんなこと他の誰も信じちゃ
くれないしねっ!」
こうして俺と当主との約束は、この俺によって一時間を待たずして反故にされたのだった。

俺は情報統合思念体の統括者である老人から逃れるために時間移動し、その直前に老人によって記憶を奪われたのだろう。
ここはあのときから六年、つまり元の時代から十年半ほど遡った過去だ。
俺は最大でも六年間の時間遡行しか出来なかった。つまり少年が言っていた飛び石的時間移動がいつの間にか可能になっていたのだ。
これからのことは当主が言ってくれたとおり、明日からじっくり考えよう。
俺は床につき、すぐに眠りに落ちた。

それも束の間、俺は体全体が大きく揺さぶられる感覚に飛び起きた。
俺が幼い頃に経験した大地震、それを思い出させる強烈な衝撃だった。

だが冷静に辺りを見回してみると、おかしなことに何一つ揺れているものはない。
そして見たところ俺の体にも揺れは生じていない。
しかし俺は確かに激しい揺れを感じている。
何が起こっているのか、ようやく俺は理解した。時空振動だ。それもかなり特大の。
そして理由はすぐに思い当たった。

 ハルヒによる最初の情報爆発が今まさにおこなわれている。

 未来からでも観測出来た、という朝比奈さんの言葉を思い出す。
今まさに時空振の強大さを俺自身が感じていた。
おそらく今日の俺とハルヒとの会話が、この情報爆発を引き起こしたのだ。
そして驚くべきことに、つまり俺は、六年間の時間移動によりハルヒが作り出したという時
間断層を突破していたのだ。
あの老人ですらそれは不可能なことだと言っていた。
ハルヒは俺のために特別な抜け道を作ってくれていたのだろうか?
老人はあのとき、二度と情報爆発は起こらないだろうと言った。
超自然的かつ奇跡的な確率でおこなわれたことだと。
そしてそれは俺とハルヒの出会いにより再び引き起こされた。
もし運命というものが存在するのなら、俺はそれを信じてみてもいいと思った。
いや、今の俺にはそれを信じる以外に道はない。



第 四 章


情報爆発から一夜が明けた。
俺はこれからの行動計画を考えた。俺がすべきことは大きく分けて三つある。
機関を立ち上げること。
未来人がTPDDを得るきっかけを与えること。
そして、ハルヒを救うこと。
さらに俺には絶対に避けなければならないことがあった。
ひとつは当然ながら、自らが既定事項を崩す行動を取らないことだ。
俺の誤った行動によって、未来が俺の知る元の未来と変わってしまえば、全てが水の泡だ。

そして、もうひとつはさらに重要だった。
情報統合思念体に、俺の存在を知られることは絶対にあってはならない。
老人の話を信じるとすれば、書き換えられたこの歴史では、情報統合思念体は俺の存在を知らない。ハルヒの周辺に関する記憶を全て抹消すると言っていたからな。
気をつけなくてはならないのは、俺がTFEI端末に不用意に接触することだ。
たとえそれが長門であってもだ。

もし俺がTFEI端末の周囲に近けば、奴らは俺の記憶を読み取るのに些かの労力も必要としないだろう。
そして俺が情報統合思念体を消滅させる意図を持っていることを奴らに知られれば、俺はかなりまずい状況に立たされる。
情報統合思念体から攻撃を受けることは容易に想像出来る。
過去の長門の行動から推測すれば、おそらく記憶を読むのに必要な距離は半径十メートル程度だろう。

長門は最終的には俺と行動を共にし、ハルヒを救うために情報統合思念体の抹消を提案してくれた。だがそれはあくまでも卒業式以降の歴史である。
それ以前の長門に俺の意志を知られることによって、長門が俺の敵にならないという保障はどこにもない。
長門を敵に回すなんてことは俺には絶対に考えられなかった。

TFEIだけではない。未来人や超能力者、その他一般人を含めた誰にだろうと、今の俺に過去の俺の面影を見出されることは好ましくない。
そういうわけで、俺は髭を伸ばし、目が弱いという理由でサングラスをかけ続けることにした。怪しげな組織の創設者には怪しげなスタイルが似合うのさ、おそらく。

次に俺は、世界と歴史、とりわけハルヒの周辺が情報統合思念体によってどのように改変されているのかを確認することにした。
ハルヒがどこの高校に入学しようとも、俺は最終的に北高に行くように歴史を修正するわけだが、それでも今ハルヒがどこにいるのかを知る必要はある。

ハルヒの周囲には観察のためのTFEI端末がいるはずだ。
俺がハルヒの居場所を知らないがために、迂闊にハルヒの周囲に近づくということは、すなわちTFEI端末に発見される危険性が高まるということだ。
俺は、この時代から三年後の北高の入学式、つまり俺たちが北高に入学した日の登校時間に移動した。
おそらくハルヒは北高には入学しないだろう。
情報統合思念体が全ての歴史を書き換えたのだとすれば、ハルヒがジョン・スミスに会う歴史は生まれていないはずだ。
だが俺は一応の対策として、北高の近くを見張るのは避け、登下校ルートが見渡せる建物の屋上を探し出し、そこから双眼鏡で観察することにした。

学生たちをつぶさに観察出来るほど双眼鏡の倍率は高くなかったが、それでもその中にSOS団メンバーが混じっていればすぐに解るだろう。
三年間ずっとつきあってきた。例えそれが双眼鏡越しの後姿だとしても、俺は一目で判別する自信がある。
予想どおり北高にハルヒの姿はなく、長門の姿も見当たらず、大汗をかきながら暗澹たる気分で坂道を登る高校一年の俺の姿しか発見出来なかった。
入学式の日は新一年生のみの登校であり、朝比奈さんの姿は当然確認出来なかった。
だが翌日もおそらく朝比奈さんは来ず、しばらく経って古泉が転校してくることもないだろう。まだ未来人組織も古泉たちの機関も出来ていないんだからな。
では朝比奈さんと古泉は解るとして、ハルヒと長門はどこだ?

俺は時間移動で再び登校時間に戻り、ハルヒの家から比較的近い、市内の高校をひとつずつ同じ方法で調査することにした。
さっき北高の通学路を張っていた俺と同じ時間平面に来ている。
つまりこの時間平面には今の俺と北高を張っている俺の二人がいるわけだ。
無駄にややこしい。俺はまず、文化祭の映画撮影で使ったロケ地である朝比奈さんが突き落とされた池に程近い、学区内では一番の進学校に向かった。
長門が世界を改変したときとは違い、光陽園女子が俺の知る中高一貫のお嬢様女子高のままならば、ハルヒにとってその進学校が最も適切な選択のはずだ。
双眼鏡の視界を校門付近に固定し、しばらく観察を続けた。

見つけた。
これから始まる学校生活への不安や期待を一様にその表情に浮かべる新高校生の中で、ただ一人だけ、俺が初めて会ったときと同じ100%混じり気なしの不機嫌イライラオーラを放出し続けている、見慣れた黒髪の女の姿を。
そして、同じ高校に朝倉と喜緑さんの姿も発見した。
だが長門の姿は見えなかった。長門はハルヒの監視役。
ハルヒがそこに通うのであれば、長門も当然ながら同じ学校に通うのが筋というのものだ。なぜ長門はいないんだろう。

俺には他にも気になっていることがあった。
今の歴史では、俺とハルヒの将来はどうなっているんだ?
俺は、俺が元いた時代、つまり俺とハルヒが結婚していた頃に移動した。
予想どおりだった。俺とハルヒは結婚していない。当たり前だ。
北高での出会いがなければ、俺とハルヒの人生には永遠に交差する点は訪れないだろうからな。
そしてこの歴史では俺は大学には行かず、専門学校を卒業したものの、就職難でフリーター真っ只中にいた。なんてことだ。俺はあらためてハルヒの補習授業のありがたみを実感した。
では一体ハルヒはどこにいる?
俺はハルヒの実家を遠くから見張ってみた。
だがいつまでたってもそこにハルヒの姿は見出せなかった。

次に一年間時間を遡ってみた。そこには大学に通う、さっき進学高で見たのと同じ、混じり気のない不機嫌な表情そのままのハルヒがいた。
そこからさらに半年間時間を進める。大学卒業前のハルヒを発見した。
なるほど、ならば大学を卒業してすぐに引越しでもしたのか?
そうしてハルヒがいなくなった時期を少しずつ絞り込んでいき、ようやく真実にたどり着い
た俺は、あまりのことに茫然自失した。
ハルヒの実家にかかる鯨幕。訪れる弔いの人影。外側からわずかに見える祭壇。
ハルヒの写真。
ハルヒは大学を卒業してしばらく後に、やはり原因不明の難病で命を落としていたのだった。
俺は直感した。何らかの理由で情報統合思念体が自律進化の可能性を捨て、不確定要素であるハルヒを亡き者にしたのだろうと。
過去のハルヒは高校一年の五月と高校三年の二月、二度世界を作り変えようとし、そしてそれは俺の存在により未遂に終わった。

だがこの歴史では、ハルヒを止められる者はおそらく誰もいない。
情報統合思念体は、自律進化の可能性と世界改変による自らの消滅の可能性を天秤にかけた末に現状維持を望み、世界改変を未然に防ぐためにハルヒを死に至らしめたのだ。
奴らは情報爆発以降のハルヒへの手出しは危険と言っていたが、この歴史ではこういう判断を下したのだろう。
これはあくまでも想像でしかない。
だがやつらの動機としては十分に考えられることであり、
他にハルヒが原因不明の病気になる理由は考えられない。
暴走した長門が世界を変えてしまった時の喪失感、そのときとは比較にならないほどの感覚を俺が襲っていた。
情報統合思念体によって、俺は一番大切な思い出を奪われ、一番大切な人を二度も殺されたのだ。
こんな未来など俺は絶対に認めない。認められるはずがない。

俺とハルヒが北高で出会う歴史を作るためには、あの七夕でのジョン・スミスとの出会いが必要だ。
それだけではない。俺がハルヒと結婚する未来を確実にするためには、おそらく俺の知る過去の事象を全て「既定事項」として作り出さねばならないはずだ。
俺は今日の時間移動であることに気づいていた。
俺が機関を作らずとも、世界は終わっていない。
俺が作らなければ、他の誰かが元の歴史とは別の超能力者組織を作るのだろう。
だがそれで古泉が北高に入学する保障はどこにもない。
やはり機関は鶴屋さんの言葉どおり俺が作るべきなのだ。

俺はこれから、歴史を改変する度に、その結果を検証しなければならない。
歴史というブラックボックスに対して改変というインプットを与えた際に、アウトプットと
なる未来がどう変化するのかを理解する必要がある。
結果を正しくフィードバックしてこそ、正しい歴史を作ることが出来るのだ。
そして検証作業を今日のように俺一人の手でおこなうのは、今後は不可能となるだろう。

ハルヒが北高に入学すれば、その後は北高内部の情報収集が不可欠だ。
だが俺自身はTFEI端末に近づけないという理由でそれを出来ない。
つまり、俺には情報収集を肩代わりしてくれる存在が必要だ。
ならば最初にやるべきことは決まった。
俺は機関を立ち上げることを最優先課題にすることにした。

その日の夜、機関創設に関する当主との打ち合わせが開かれた。
まず俺は、鶴屋さんに正体がバレたこと、一応の口止めをしておいたことを正直に明かした。
当主は笑いながら、
「あれは異常に勘のよい娘でして、私も昔からよく困らされております。ただ物事の本質や何が大切かということもよく解っているようです。口の堅さは保障しますので、どうかお気になさらずに」
と言って許してくれた。日々、物理的に頭が下がりっぱなしである。
俺は機関創設計画の草案と、それに伴い必要になるであろうことについて話した。
何よりもまず超能力者を探し出してそれを集める必要があること。
閉鎖空間の発生とともに、超能力者がすぐに対応出来る体制をつくること。
超能力者とは別にハルヒの監視役が必要なこと。
未来人や情報統合思念体などの別勢力に関する情報収集をおこなう人員が必要なこと。
その他、雑務をこなすための人員が必要なこと。
それらを実現するために、信頼のおけるスポンサーを集める必要があること。

当主はひと通り聞き終えると、俺の意見に全面的に同意してくれた。
「閉鎖空間が発生した際には、よろしければご招待します。是非一度ご覧いただき、その目でお確かめください」
「それは実に興味深いですな。楽しみにしております。ああ、それと、」
当主はまたしてもありがたい提案をしてくれた。
「私も出来る限りの協力は惜しみませんが、とはいえ立場上常に時間を取れるわけでもありません。私の代わりにあなたをサポートする、言わば秘書のような者を紹介したいのですが。いかがでしょう?」
「ありがとうございます。何から何まで、本当に痛み入ります」
果たして一体俺は既に何度当主に頭を下げているだろう。

打ち合わせを終了し、俺は離れに戻って具体的な計画を考えた。
さて、その超能力者たちを一体どうやって探し出そうか。
俺は、俺が初めて閉鎖空間に連れて行かれたときのタクシーの中で、古泉が言ったことを思い出していた。

超能力者たちはハルヒによって能力に目覚め、それがハルヒから与えられたことを知っている。
超能力者たちは自分と同じ能力を持つものが自分と同時に現れたことを知っている。
超能力者たちは閉鎖空間の出現を探知でき、その中で自らが何をすべきなのかを知っている。
超能力者たちは神人を放置しておくと世界が終わってしまうことを知っている。
そしてそれらのことはおそらく昨日、ハルヒの情報爆発によって全ての超能力者にもたらされたはずだ。
超能力者たちはハルヒの存在を知っている。ハルヒの周辺を見張っていれば、彼らのうち誰かが何らかの目的でハルヒに接触を試みるかもしれない。
だが具体的にどこまでハルヒのことが解るのだろうか。
彼らはハルヒの所在まで特定出来るのだろうか。
俺の知る機関の連中はハルヒを神扱いしていた。仮にハルヒの居場所が解るとして、神に近づくなどという大胆な超能力者はいるだろうか。

いや、彼らは昨日今日能力を与えられたばかりで混乱しているかもしれない。
神に対して大それた行動に出ないとも限らない。
ならばハルヒのガードが必要になるかもしれない。
いや、どちらかと言えば超能力者のガードになるだろう。
超能力者の誰かがハルヒに危害を及ぼすのを放置すれば、TFEI端末に消される可能性も充分に考えられる。

他に超能力者と接触する方法として考えられるのは、閉鎖空間が発生したときに彼らを探し出すことだ。
彼らは閉鎖空間の出現だけでなく、場所までを正確に把握出来る。そして彼らは強制的に与えられた自らの使命を果たすべく、おそらくそこに集まるだろう。

そして俺もおそらくその発生を探知出来ると考えられる。
いつかの野球場で古泉や長門とともに朝比奈さんが見せた態度、あれは閉鎖空間の発生を感じ取ってのことのはずだ。 だが閉鎖空間はいつ発生するんだ?
未来に飛んで閉鎖空間の発生時間を調べてみるにしても、飛んだその時に閉鎖空間が発生していない限り、俺にはそれを探知する術はない。
どうやらこちらの線は閉鎖空間の発生を待ったほうがよさそうだ。
とにかくどちらの方法でもいい。誰でもいい。
一人でも超能力者と接触出来れば、そこから芋づる式に超能力者は見つかるはずだ。

翌日、俺は閉鎖空間の発生までハルヒを監視することにした。
ただ待つだけというのはどうも性に合わない。
ハルヒは既に小学校を卒業していたため、俺はハルヒの実家を張ることにした。
仮に超能力者の誰かがハルヒに近づくとすれば、ハルヒの外出時を狙うだろう。
ハルヒの家の周辺を見渡せて、かつハルヒを監視する俺以外の存在から見つからないであろう監視場所を探すのには苦労した。
ただでさえ高所から双眼鏡を使って監視するのだ。
TFEI端末でなくとも、一般人に見つかれば警察に通報されるかもしれない。
時間移動で難を逃れられるとはいえ、無用なトラブルは避けるべきだ。
俺は一時間ほどかけてようやく監視に適した場所を見つけ、ハルヒの外出を待った。
一分置きの時間移動を繰り返し、十秒間監視をおこなう。
外出するなら朝の七時から夕方五時くらいまでだろう。
その十時間を約二時間弱で監視する計算になる。
初日にはハルヒは結局一度も外出をせず、俺はその翌日から三日後まで順々に飛び、同様に監視を続けた。
ハルヒは一度だけ外出し、俺はしばらくそれを尾行したが、結果は芳しくなく超能力者らしい人影は現れなかった。
俺は元の時間平面、つまり情報爆発の翌々日の夕方頃に戻った。朝頃に戻っても構わないのだが、あまり実際の活動時間とズレるのは体内時計によくなさそうだ。

「紹介します」
翌日、当主にサポート役として引き合わされた女性を見て、俺はまた腰を抜かしそうになった。
年齢不詳の美女。あるときは別荘のメイドとして、あるときはカーチェイスの末に敵対勢力を追い詰め、その能力を遺憾なく発揮したあの人が目の前に立っていた。
「はじめまして。森園生と申します」
俺は実感した。少しずつだが、確実に歴史は俺の知るものと繋がりつつある。
森さんはこの時点で既に様々な技能を身につけていた。秘書能力、あらゆる事務能力などに加え、諜報能力、六カ国語を使いこなし、武術にも長け、射撃に関してもひととおりの心得があるとのことだった。ところで射撃って一体何だ?

森さんは、スーツの左側を開いてみせた。内側にホルダーが備え付けらており、その中にはすぐさま使用するのに何の不都合もないであろう状態で拳銃が収まっていた。
朝比奈さん(みちる)を誘拐した連中とのカーチェイスの際、俺が森さんに底知れない何かを感じたのは間違いではなかった。やれやれ、一体森さんはどういう経歴の持ち主なんだ?
どこかの諜報機関の女スパイか何かなのだろうか。
そして、森さんのような人材をたちどころに調達することの出来る当主が一番底知れない人物であるのは言うまでもない。

既に森さんは当主から大方の説明を受けていた。俺が未来人であることを除いて。
「機関のエージェント確保やスポンサー探しについては、当主が当たってくれています。我々は、当面は超能力者を探し出すことに重点を置きます」
森さんにハルヒの監視を引き継ぐことにした。ハルヒの身の回りに超能力者らしき不審な人物が接触を図る素振りがあれば、ただちに制止して尋問して欲しいと。
俺は遠くからハルヒを監視することは出来ても、ハルヒに近づくことは出来ない。
おそらく、ハルヒの周辺を監視しているTFEI端末がいるだろうからな。
俺が以前、朝比奈さんに連れられて長門のマンションに行ったとき、つまり俺が中学一年の頃の七夕のときには、長門は既に北高の制服を着ていて、俺が高校一年のときに見たそのままの姿だった。
そして長門は三年間あのマンションで孤独に待機していたのだ。
おそらく長門・朝倉・喜緑の三人は高校専用のTFEI端末で、今この時代の彼女たちは待機モードであり、今のハルヒや中学生のハルヒを監視するための別のTFEI端末が存在するのだと思われる。
既にこの三日分の観察は終わっているため、理由は言わずに、四日後から監視に入って欲しいと告げた。
俺は、田丸氏の存在を思い出し、別荘の線で田丸氏とコンタクトが取れないか調べることにした。
一週間かけて、高一の夏休み序盤に招待された、あの島の所有者の変遷と身辺を調査した。だが、結局そこに田丸氏らしき人物は見出せなかった。


どこかの山中に俺は立っていた。暗い。
得体の知れない寒気のようなものを感じる。
森に囲まれた平地に、おぼろげに噴水が見える。
わずかな光に照らされた全てのものは、その色を失っていた。
背後から聞いたことのある少女の泣き声。振り返る。
広場の一角に、ひときわ明るい光に包まれた人形が立っていた。
人形はどこか寂しげな様子で、あたりを見回している。
やがて人形だったそれは、光を失いながら霧のように拡散していった。


また夢を見た。夢の中の泣き声は、前に見た夢と同じ持ち主によるものだった。
この夢は誰が見せているものなのか?
ハルヒ、お前なのか?

それからしばらくして、夢の意味が解った。
遂に閉鎖空間が発生した。ハルヒの中学校入学式の夜。
ハルヒよ、お前は中学に入っていきなりイライラを爆発させちまったのか?
予想通り俺は閉鎖空間の発生を探知することが出来た。
時空振動に似た感覚が俺を襲った。

だが俺にはその場所が特定出来なかった。
振動を感じ続けてはいるものの、震源地の方角すら解らなかった。
俺はやはり夢にかけてみることにした。なぜなら、あの夢の中で感じていた寒気と同じものを、俺が今実際に感じているからだ。
当主を閉鎖空間に案内するのは次回以降でよいだろう。
現時点では俺にだって閉鎖空間を探し当てられるという保証はない。

森さんに連絡を飛ばす。
「閉鎖空間が発生しているようです。車を手配してすぐに来れますか?」
「了解しました。五分で到着します」
そう言った森さんは、本当に五分きっかりに鶴屋邸前に到着した。
「どちらへ向かいますか」
夢の中のおぼろげな風景。だが、俺はその風景に確かに見覚えがあった。
森さんの運転する車で向かった先は、SOS団の映画のロケ地、あの森林公園だ。
十分ほどで到着した俺たちは、駐車場に車を停め、さらに徒歩で三十分かけて噴水のある広場まで登った。
朝比奈さんと長門の対決シーンを撮った広場。そして朝比奈さんがレーザーを発射し長門に押し倒されたあの場所。

おそらくここで間違っていない。広場内の他の場所よりも、この場所で特に例の寒気を顕著に感じるからだ。
「ここに閉鎖空間が発生しているのですか?」
森さんが不安げに俺を見る。彼女の不安はおそらく閉鎖空間という得体の知れないものに対してではなく、本当にこの場所で大丈夫なのかという、俺に対する不安であろう。

「確証はないですが、こことは別の次元のこの場所で神人が暴れています。そして超能力者たちは今まさに神人との初めての戦闘をおこなっているはずです。神人を倒せば閉鎖空間は消え、超能力者たちが現れます」
これで俺の見当違いだったらかなり申し訳ないな、と思いつつも俺たちには待つ以外に方法はなかった。
あまり口数の多くない森さんとの気詰まりを感じながら、二時間ばかり待っただろうか。
不意に寒気が消えた。
と同時に俺たちがいる場所を取り囲むように三人の男性が突如として現れた。
そこに古泉の姿はなかった。
それぞれ二十代後半、ハイティーン、ミドルティーンと言ったところだろうか。
彼ら三人には神人との戦いを通じて既に共通認識が芽生えているようだった。
そして、そこに異端の者として俺たちが突っ立っている格好だ。
OL風スーツに身を包んだ女性と、やはりスーツ姿にサングラスと髭面の男が、こんな夜中にこんな山中に立っているのだ。これはもう、誰がどう見たって怪しい。

俺は、ひとまず敵意のないことを示すため、彼らに微笑んで見せた。
森さんはと言えば、実に見事なエージェント的笑顔を向けていた。
それは鏡を見て練習でもしたんでしょうか?
しかしながら、超能力者三人はあからさまに俺たちを警戒している。
まあ当然の反応だろう。
「俺の話を聞いてくれませんか」
「お前は何者だ」
年長と思われる超能力者が俺に歩み寄った。
俺は彼らの気持ちを考えてみた。きっと今の状況を不安に思っているに違いない。
ハルヒによって何の前触れもなく突然能力を与えられ、その使い方を理解し、否応なく薄気味悪い夜の山中に出向かされ、さらに薄気味悪い空間で神人と戦わなければならない彼らの心境を考えれば、にこやかに話に応じることなど出来るはずもない。
心の底から気の毒に思う。
「俺はあなたたちの味方です」
「お前は俺たちのことを知っているのか」
「あなたたちがどこの誰なのかを知っているわけではありません。ですがあなたたちが何故ここにいるのかは解ります」

三人は顔を見合わせた。
「どうやってお前を信じればいい」
「あなたたちに能力を与えた涼宮ハルヒを知る者、と言えば信じていただけますか?」
その名前を聞いて、彼らは納得したようだった。
「解った。話を聞かせてもらえるか」
俺は超能力者を集めた組織を作る予定であること、そのメンバーに加わってもらいたいということ、閉鎖空間の発生とともに超能力者が出動出来る体勢を整える予定であること、超能力が消滅するまでは責任を持って生活を保障すること、などを伝えた。
森さんは名刺を渡すとともに彼らの連絡先を確認し、詳しいことは明日にでもこちらから連絡する、とを伝えた。

俺たちは、北口駅前近くのビルの二フロアを借り、そこに機関の本部を構えた。
超能力者やエージェントが増えるにつれ、ここもいずれ手狭となるかもしれない。
超能力者は他の超能力者の存在を知ることが出来る。最初の三人を無事仲間に加えることが出来た俺たちは、それを頼りに他の超能力者を次々と探し出した。
だが古泉はなかなか見つからなかった。
「まだ残りの能力者の所在は掴めませんか?」
「残念ながら、進展なしですね」
俺と話しているのは、森林公園で会った三人のうちの年長者で、今は超能力者たちのリーダー的存在の人物だ。
「見つけ出せない理由はおそらくですが、本人が能力に気づいていないか、あるいは自らの能力を受け入れていないか、のどちらかでしょう。ですが能力に気づいていないというケースは今まで発見された能力者では該当者はいません。私たちと同様に能力を身につけた者は、自分に何が起こったか、何をすべきかをその瞬間に理解しいるはずです」
「残された超能力者は後何人くらいいそうですか?」
「私たちには残りの能力者の場所は解らなくとも、存在はなんとなく解るんです。感じると言いますか。これは既に集まっている能力者共通の意見ですが、この世界で同じ能力を持つものはおそらく十人程度と考えられます。現在のところ機関に所属している能力者は八名。つまりおそらくあと一、二名の能力者が残っているということになります」

あの卒業式の三日前に発生した大規模閉鎖空間では、機関と敵対勢力の超能力者を併せて二十人以上はいたはずだ。つまり、こちらの超能力者からは敵の超能力者の存在は感じ取れないということになる。
ハルヒによってあらかじめ敵、味方となる勢力を決められていたということだろうか。

「最初の閉鎖空間に向かったのはご存知のとおり私たち三名だけでした。私たちは早くから与えられた能力と役割を受け入れていたので、お互いがどこにいるかがすぐに解ったんです。それ以外の者はまだ覚悟が出来ていなかったんでしょうね。能力を受け入れていない者、つまり心を開いていない者の場所はこちらからでは解りません」

発見されていない能力者、つまり古泉はまだその能力を自ら認めていないということか。
「彼らの気持ちは解りますよ。私だって突然自分に未知の能力が身について、混乱しなかったと言えば嘘になります。ですが私は何事も楽観的に考えるタイプでして。逆に深刻に物事をとらえるタイプの人間にとっては、これはかなり辛いことだと思います。最初の閉鎖空間が発生しているときは、彼らは大変な葛藤をしたと思いますよ。想像してみてください。自分が異能の存在になってしまったことを認めたくない、閉鎖空間や神人はもちろん怖い、でもそれを放置すれば世界が終わってしまうかもしれない。これは相当な恐怖ですよ」
古泉は今もそういう日々を送っているはずだ。
「おそらく残された能力者の取る道は三つです。他の能力者と同じく覚悟を決めて能力を受け入れるか、このまま恐怖に押し潰されて自ら命を絶つか、あるいは閉鎖空間や神人発生の原因である涼宮ハルヒの殺害を謀るか、です」

古泉は言っていた。
「機関からのお迎えが来なければ、僕は自殺してたかもしれませんよ」
と。
迎えに行けるものならすぐにでも行ってやりたい。
だがお前からシグナルを発してくれなければ、こちらからは打つ手がない。
森さんによるハルヒの監視は継続していたが、やはり古泉が姿を現すことはなかった。
もし古泉がハルヒの殺害を意図すれば、こちらが保護する前にTFEI端末に消される恐れだってある。
既定事項では古泉は無事に機関に入るはずだが、今の歴史の流れでそうなる保障はどこにもない。

その数日後、もどかしい気持ちで過ごした日々はようやく終わった。
四度目の閉鎖空間が発生したその直後、リーダー格の彼から連絡があったのだ。
「今さっき、未発見の能力者一名の微弱な波動を感じました」
「了解です。森さんを能力者の確保に向かわせます。位置把握のために能力者を誰か一名使いますが、そちらは大丈夫ですか?」
「閉鎖空間の方はなんとかやってみます。規模はそれほど大きくないようですので、いけると思います」
「解りました。よろしくお願いします」
俺は直ちに森さんと能力者を手配し、波動の発信源へと向かわせた。

「氏名、古泉一樹。性別、男性。年齢、十二歳。××市立××中学の一年。発見時に極度の衰弱と精神錯乱を確認」
なんとか神人の迎撃を完了した後、俺は本部の一室で森さんからの報告を受けていた。
「随分暴れまして、保護するのに手間取りました。『僕は行きたくない』とずっと繰り返して
おりまして。現在下のフロアの宿泊施設に収容しています」
「今は様子はどうですか」
「依然、精神錯乱が見られます。落ち着くまではしばらく機関で保護したほうがよいかと思われます」
「今会って話せますか」
「今日は見合わせて明日以降がよいですね」
森さんの報告によると、古泉は能力発現からずっと学校を休んでおり、つまり中学には一度も登校せず、家から出ることすら出来ない状態だったらしい。
古泉は今まで発見された超能力者の中でも最年少だった。
混乱が激しいのも無理はない。

翌日俺は本部に赴き、森さんとともに古泉と面会した。
ドアを開けたそこにはベッドの上で膝を抱え、うずくまる少年の姿があった。
「あんたたちは一体何なんだ」
俺たちに気づくと少年は顔を上げ、懐疑的な色の目を向けた。
顔つきこそまだ幼いが、それは確かに古泉だった。
俺の知る古泉とは異なり、随分と口調が荒いが。
「俺たちは君の味方だ。森さんから説明があったと思うが、君に俺たちの組織に入ってもらうために来てもらった」
「何だよ、涼宮ハルヒってのは。何で僕がそいつのせいでこんなに苦しまなくちゃならないんだ」
すまん、古泉よ。それは将来の俺の嫁だ。俺からも詫びを入れたい気分だ。

「こんな言葉で片付けるのはあまり好きじゃないが、これが運命だと思って受け入れてくれ。涼宮ハルヒのことだけじゃなく、俺とお前がこうして出会うことも含めてな」
「わけ解んないよ! 僕は嫌だ。あんなところには行きたくない」
まるで説得の糸口が見つからない。
「悪いようにはしない。しばらくここで俺たちの活動内容を見てから考えてくれればいい。他の能力者と話し合うのもいい」
「うるさい!」
しばらく説得を続けたが、俺の言葉は全く受け入れられなかった。
部屋を出ると、能力者のリーダーが待っていた。
「彼の様子はどうです?」
「かなり精神的に追い詰められているみたいです」
「無理もないですね。どうかご理解ください。私たちは涼宮ハルヒという鎖に縛られています。涼宮ハルヒは私たちに無理やりに能力を与え、神人という恐怖により絶対的服従を誓わせた、そういう存在です。そして私たちは涼宮ハルヒの精神状態によって右往左往させられる、実に惨めな存在なのですから」

ハルヒも無意識的にとは言え、随分罪作りなことをしたもんだ。宇宙人や未来人を集めるのは構わない。奴らは最初から宇宙人や未来人だ。
だが超能力者は違う。元はと言えば普通の人間だ。
それを勝手に超能力者に作り変え、おまけに自分のイライラを解消させるために使うんだからな。
「様子を見るしかないでしょうね。私たちも彼を落ち着かせられるようにしてみますので。彼は同じ能力者仲間ですからね」

数日後、森さんからの経過報告を受けた。
「あまり芳しくないですね」
「今はどういう状態ですか」
「精神状態は比較的安定傾向にあります。ですがまだ神人と戦える状態ではありません」
「つまり、どういうことです?」
「他の能力者の意見では、単純な問題でもないようです。神人への過度の恐怖心が原因でまだ完全に能力が発現していない状態とのことです。逆に、能力が発現していないからこそ恐怖心が余計に募るのかもしれない、とも。最悪の場合、ずっと能力が発現しないままの可能性もあると言ってました」
そうなると、俺の知る歴史には至らないんだが。これはどうしたものか。

古泉の部屋に赴く。
「よお、調子はどうだ。オセロでもやらないか」
古泉は軽く俺を睨んだが、ずっと部屋にいて退屈だったのか、誘いに応じた。
「ルールは解るか?」
無言でうなずく。
「どうだ、だいぶ落ち着いたか?」
無言でうなずく。
「他の能力者とは話してみたか?」
無言で首を振る。
まるで長門を相手にしてるみたいだ。
精神状態が安定したと言っても、こんな状態だといかんともしがたい。
ちなみに二ゲームやったが、この古泉も俺のよく知る古泉同様、ゲームは激しく弱かった。

あることに気がついた。森さんも古泉もそうだが、俺はそれをてっきり偽名だと思っていた。
怪しげな機関に所属するものが本名など使うはずがないと。
そんな疑問をそれとなく森さんに聞いて見た。

「これから起こることを考えれば、涼宮ハルヒの周辺にはプロ中のプロが集まります。相手がその気になれば身元など簡単に割れます。私たちが同じくそう出来るように。ならば本名を使った方が、余計な手間が省けます」
なるほど。エージェントの世界というのも色々と奥が深いものなんだな。
つまり俺は表立って機関に関わるのを極力避けた方がよいということだろう。

それからしばらくして、五度目の閉鎖空間が発生した。
俺は一計を案じ、古泉のいる部屋へと向かった。
「何ですか? 僕をどうしようっていうんですか?」
古泉はやっと普通に話せる状態には回復していた。
「今からちょっと付き合え」
古泉は明らかに怯えた顔で、
「僕をあのわけの解らない場所に連れて行くつもりですか?」
俺だってそのわけの解らない場所に何も知らないまま連れて行かれたんだぞ。
しかも連れて行ったのは誰あろうお前だ。
「なに、心配しなくていい。俺が閉鎖空間を見物したいだけさ。それに今日はお客様もいる。お前の力を借りたい」
「嫌です。僕はそんなところに行きたくない」
「神人退治をしろと言ってるわけじゃない。そこまではさせないさ。それともまだ逃げ続ける気か?」
「僕が何から逃げていると言うんですか」
俺の言葉にうまく乗ってきた。年下の扱いは昔から得意なんだ俺は。
性格をよく知る古泉相手ならなおさらだ。
「解ったよ。とにかくついて来い」
能力者への指令を森さんに任せ、俺は機関の車に古泉を乗せた。
「どこに向かうんですか? あの場所とは方向が違いますよ」
「さっき言っただろう。今日はお客様がお見えになる。粗相のないようにな」

到着したのは鶴屋邸。
お客とは以前から閉鎖空間に案内すると約束していた当主のことだ。
「やっと閉鎖空間とやらを拝めますな。楽しみにしてます」
「こいつが今日俺たちを閉鎖空間に案内してくれます」
俺は古泉を紹介した。
「ほほう、それはそれは。ご苦労ですがよろしく頼みますよ」
柔和な笑みを浮かべる当主に、古泉も安堵の表情を見せた。
これで少しは緊張がほぐれてくれればいいが。
しばらく車を走らせた先は、奇しくも俺が最初に古泉に連れて来られた場所と同じだった。
「壁の位置がどこだか解るか?」
「そこの交差点の歩道の丁度真ん中です。でも、能力者以外が入ることが出来るんですか?」
「出来るさ。俺たちだけでは入れないがな。だからお前をつれてきたんだ。侵入の方法は解るな? ならば俺たちを入れるのも簡単だ」
「解りますが……、僕はすぐに外に戻りますよ」
「ああ、構わない。よろしく頼むぞ。」
「では、しばらく目閉じてください」
俺と当主は古泉の指示に従い、古泉は両手でそれぞれ俺と当主の手を握った。
「行きます」
以前と同じように、古泉に手を引かれて俺たちは閉鎖空間に侵入した。
入るなり、瞼の奥に強い光を感じた。
目を開く。眼前に青い光の塊が広がっていた。
距離にしておよそ十五メートルほどだろうか、目の前に神人がいやがった。
近すぎる。予想外の展開だ。
「やばいぞ、脱出する。古泉、行けるか?」
返事がない。古泉は神人をじっと見つめたまま硬直していた。
「聞こえてるか!? 出るぞ!」
俺の問いには答えず、古泉は神人を仰ぎ見たまま動かない。

まずいことになった。少しずつ閉鎖空間に慣れさせようと連れて来たのが、これでは逆効果になりかねない。
だが、しばらくして古泉が発した言葉は見事に俺の予想を裏切ってくれた。

「綺麗だ……」
俺は長い付き合いを通して、古泉のことを少し変わった奴だとずっと思っていた。
その判断は正しかった。こいつはやはりどこかおかしい。
そして、荒療治は案外成功するかもしれない。
俺は左手で古泉の肩を叩き、右手で神人を指差してこう言った。
これで夕日でも落ちていれば、どこかの青春の一ページみたいなポージングだ。

「あれが神人だ。お前には釈迦に説法かもしれんが、あれの出現は涼宮ハルヒの精神状態が悪化していることを表している」
古泉が聞いているのか聞いていないのかは解らないが、構わず俺は続けた。
「つまりあれとの戦いは、やつのイライラとお前たちのイライラのぶつかり合いということになる。いずれやってみるといい。いいストレス解消になるぞ」
我ながら、かなりいい加減なことを言っていると思う。
「最初は大変だろうと思うが、慣れれば……そうだな、ニキビ治療みたいなもんだ」
これはお前が言った言葉だぞ、古泉。
俺は古泉の手が赤く輝き始めたことに気づいた。能力が発現したらしい。 
「これは……?」
やがて古泉がかざした右手の上にハンドボール大の赤い光球が生み出されていた。
「それがお前に与えられた能力だ。試しに投げてみろ」
古泉は光球と神人をしばらく交互に見つめ、思い立ったように、滑らかかつ力強いフォームで光球を神人に向かって投げつけた。
そういやこいつは野球をやってたんだっけか。
それは見事に神人の腕に命中し、驚くべきことに神人の腕は粉々に砕け散った。
どうやら驚いているのは俺だけではなく、神人の周りを飛ぶ人間大の光球たちも、その動きでもって驚きを表現していた。
ルーキーが初打席で敵エースの決め球をバックスクリーンに叩き込んだようなもんだ。
そう言えばすっかり当主の存在を忘れていた。
振り返ると当主は相変わらずの笑顔でこの超常的な展開を楽しんでいるようだった。
この剛胆ぶりは鶴屋家の遺伝子のなせる技なのか?

「……あの飛んでいる光は?」
古泉は神人の周囲に群がる光点に気づいたようだ。
「あれはみんなお前の仲間だ。そしてこれから先お前にはもっと多くのかけがえのない仲間が出来る」
光球たちをじっと目で追う古泉に、
「そのうちお前もああいう風に戦えるようになるさ」
「どうやったら飛べるんですか?」
「それは俺には解らん。俺は能力者じゃないからな。だが他の能力者だって誰に教わったわけでもない。その気になればお前にだってすぐに出来るようになると思うぜ」
古泉は静かに目を閉じた。意識を集中させているようだ。
突然、古泉の体中から爆発するかのようにオーラが発生し、それはすぐさま球体となった。
古泉の体がふわりと浮いた。
「やってみろ」
光球が躊躇うかのように上下に揺れた。
しばらく後にそれは静止し、次の瞬間にはレーザー光のような鋭い軌跡で神人めがけて飛び立った。既に何度も見ている光景だが、その度に思う。まったくデタラメすぎる。
古泉の光球はそのまま神人の頭部を貫通し、神人は着弾点を中心に、外側へ向けて順々に光の霧となって崩壊した。

新たに加わった光球を温かく迎え入れるかのように、他の光球たちがその周囲を飛び回っていた。

閉鎖空間の消滅後、古泉は横断歩道の上でぐったりと座り込んだ。
俺は古泉の横に座った。
「お前がこの能力を与えられたのは偶然ではない。それがたとえ涼宮ハルヒによる理不尽な選択だとしても、それは全て意味のあることだ」
古泉は首から上だけをこちらに向けた。だがその目には輝きが生じていた。
「俺が保障する。この先何年間かは君にとって辛い日々が続くかもしれない。だがいずれそれを笑って話せるときが必ずやってくる。俺を信じてくれ」
古泉は二度まばたきし、そしてこう言った。
「解りました。今後ともよろしくお願いします」

こうして超能力者は集結した。
古泉は超能力者の数は世界中で十人くらいだと言っていたが、実は全員がこの周辺で生活している人たちだった。

ハルヒも随分と手近なところで超能力者を調達したもんだな。
逆説的に言えば、閉鎖空間はハルヒの近辺にしか発生せず、神人を撃退する者もこの周辺にいる必要があったということだ。
俺は、日本にしかやって来ないどこかの宇宙怪獣と、日本にしか存在しないどこかの地球防衛軍を思い出して、妙に納得した。


ある日、俺は鶴屋さんに図書館に誘われた。
「貸し出しカード失くしちゃってさっ。これから再発行に行くんだけど、ジョン兄ちゃんつきあってくんないっ?」
俺は機関創設に関する実務的な作業や、閉鎖空間の対応に追われていたが、たまには息抜きも必要だろう。

道路に面した側を俺が歩き、鶴屋さんに歩道側を歩くように促した。
「車に轢かれるからっかい?」
「それもあるが、車を横付けして誘拐されないようにするためだ」
「へええ? 色々考えてるんだねお兄ちゃん」
「前にもあったのさ、そういうことが」
朝比奈さんが誘拐された時のことを思い出していた。
あのときは森さんたちのおかげで難を逃れたが、ひとつ間違えば取り返しのつかないことになっていたかもしれない。あんな思いは二度とごめんだ。

連れてこられたのは、高校生の頃に長門と共に来た図書館だった。
「図書館の雰囲気っていいよねっ。家にも本はいっぱいあるけど、あたしはやっぱりこっちの方が好きさっ」
鶴屋さんがカードの再発行手続きをしている間、俺は長門と初めて来たときのことを思い出していた。
もうあれから七年以上経つ。市内不思議探索パトロールの第一回目、午後の部。
ハルヒ作成によるつまようじを用いた厳正なるくじ引き――それは場合によっては全く厳正に作用していなかったのだが――によって俺と長門とはペアを組み、明らかに時間を持て余した俺が長門をこの図書館に連れて来たのだ。集合時間を寝過ごしてしまった俺は、動かざること山よりも強固な読書集中モードの長門とともに集合場所へと向かうために、長門用の貸し出しカードを作り、本を借りてやったのだ。

思い出にふける俺に鶴屋さんは意味ありげな笑みで、
「お兄ちゃん、考えごと?」
「ああ、まあな」
「女の人のこと考えてたんじゃないっ?」
相変わらず勘がいいな。
「以前、俺の友達とここに来たことがあってな。そいつの貸し出しカードを作ってやったことを思い出してた」
「ふーん」
鶴屋さんには隠し事は通用しない。
だが鶴屋さんはいずれ北高に行き、TFEI端末と接触する機会がある。
鶴屋さんの記憶が読まれることだって想定しなければならない。
過去の俺を連想させるような言動はなるべく避けるべきだ。あまり詳しいことは言えない。

図書館を出た直後に携帯が鳴った。森さんからだった。
「閉鎖空間発生の恐れがあります。至急指令所にお越しください」
俺は鶴屋さんをタクシーに乗せ、ただちに空間移動で機関本部にある指令所に向かった。

「一号から入電。観察対象の精神状態極めて不安定。危険レベル赤に移行。閉鎖空間発生の恐れあり」
その直後に時空振がきた。九度目になる閉鎖空間の発生。
「閉鎖空間の発生位置の特定急げ」
森さんがオペレーターに対して的確に指示を飛ばす。
「二号に照会します」
一号、二号というのは最近使い始めた超能力者のコードネームだ。ますます怪しげな雰囲気になっているな。
「閉鎖空間は××線△△駅前を中心に、現在半径二十一.四キロメートル。今のところ閉鎖空間の拡大は認められず」
今まで発生した閉鎖空間の中では最大規模だった。

「一号から入電。神人の発生までおよそ二十四分の見込み」
指令所にはオペレーターが五名、閉鎖空間の発生に備えて常駐しており、有事の際には俺と森さんが駆けつけるという体制になっていた。
「移送要員の手配状況を報告せよ。待機、準待機中の能力者に対して直ちに出撃要請。何人出せるか?」
「二号、閉鎖空間に侵入。一号、閉鎖空間隔壁に到着。三号、六号、八号の三名、閉鎖空間に向けて移動中。九号、移送要員手配中、四号、五号、七号と連絡不通」
まだ指揮体制が作られてから間もない。
指揮系統に乱れがあるのは当然のことだろう。
「一、二、三、六号、閉鎖空間に侵入完了。神人迎撃準備中」
「神人発生までおよそ二分」
「八号、九号閉鎖空間に侵入」
「侵入した者より順次、迎撃準備体制に移行せよ」
「一号から入電。神人出現を確認」
「閉鎖空間拡大速度、秒速一キロメートル突破。なおも加速中」

俺が古泉に連れられて行った閉鎖空間とは段違いの規模だ。ハルヒの中学時代のイライラは当時よりはるかに深刻だったらしい。
「閉鎖空間拡大速度、毎秒三.一六キロメートルで安定。閉鎖空間半径百四十七.八〇キロメートル。拡大終了まであと三時間三十一分十二秒」
超能力者たちにしても、この頃はまだ試行錯誤の連続であり、それだけに神人の迎撃にも当然ながら時間がかかっていた。
つまり、閉鎖空間の拡大が速いか、神人の撃退が速いか、まさに時間との戦いだった。

「九号から入電。一般人が数名閉鎖空間に侵入している模様」
「なんだって?」
九号というのは、すなわち古泉のことだ。
「九号に回線繋いでくれ」
すぐさま、指令所に古泉の声が響き渡る。
「九号です。閉鎖空間に侵入した際に、一般人の存在を確認しました。視認では二名。侵入の方法、目的などは不明」
「解った。君は直ちに一般人の捜索と保護にあたってくれ。残りの能力者は神人の迎撃を継続」
「了解しました。以降、報告は外部のエージェントからお願います」
「能力者四、五、七号ともに閉鎖空間内に侵入。ただちに神人迎撃体制に移行。九号、再侵入」

予想外の闖入者に混乱を来たしたが、三時間後ようやく神人は崩れ落ちた。
神人により世界が閉鎖空間に飲み込まれることがないのは、俺が知る限りでは既定事項のはずだ。
だが、それにかまけて手を抜くことは決して許されない状況だった。対処を誤れば世界は間違いなく崩壊する。閉鎖空間の出現は俺にとっても緊張の連続だった。

「閉鎖空間に侵入した一般人は三名。現在機関所有のビルにて拘束中」
森さんからの報告だ。
「対処はいかがしましょう?」
俺はまず三人に会わせて欲しいと言った。
「よろしいのですか? 閉鎖空間や機関の存在が一般に知れるのは避けるべきと思いますが」
森さんが言わんとしていることは、何らかの方法で彼らの口を塞ぐべきだということだろう。だがそれは話をしてからでも遅くはない。
俺は、不可抗力で怪しげな空間に紛れ込んでしまい、怪しげな集団に拘束されている、これはもう不幸としか言いようのない三人と面会した。
そして俺はまた歴史の繋がりを再認識させられることになった。

「なんとまぁ……」
思わず独り言が出た。
紛れ込んだ一般人三名というのは、あろうことか新川さんと田丸兄弟だった。
三人とも、普通に街を歩いていて、突然辺りが暗くなったと思ったときには既に閉鎖空間の中にいたらしい。
面会を終えた俺は森さんに宣言した。
「この三人を機関のメンバーに加えます」
森さんは驚きの表情を隠せなかった。
「閉鎖空間に一般人が紛れ込むことは、これから先もほとんどないと言っていいでしょう。万一それが起こったとすれば、それは涼宮ハルヒの意思によるものです。彼らは我々に害を及ぼすものでは決してない、いや必ず我々の助けになってくれます」
仮説ではあったが、おそらく間違ってはいないだろう。ハルヒが自分の都合で他人を必要以上に不幸に陥れるなんてことあるはずがない。
何よりこの三人が機関に加わり、重要な戦力になることは既定事項だ。

機関の立ち上げ開始から二ヶ月が経ち、機関の骨格が完成した。
俺は、今後は機関に直接的に介入することはせず、オブザーバー的な位置に立つことにした。
俺にはまだ他にやらなくてはならないことが残っていたからな。
機関の上層部には超能力者のリーダー格の男性、スポンサーからの代表者、スポンサーが推薦する研究者などが集まった。

高校時代の俺の印象どおり、上層部は今ひとつ的外れな言動を繰り返す集団になりそうだったが、それも仕方がない。既定事項だ。
彼らには現実世界とのバランサー役として活躍してもらわねばならない。

俺の立場を知る森さんには、中堅の役どころに入ってもらい、俺に情報を流す役をお願いした。
次に古泉たち一般の超能力者、最後に各種実働部隊として新川氏、田丸兄弟などのエージェントを配置した。
あまり表立って機関に関わりを持つことを好まないという鶴屋家側の要望と、創設者である俺に注意が向かないようにしたいという俺の要望が一致し、鶴屋家は間接的スポンサーの位置に収まった。

そして、娘を危険なことに巻き込みたくないという当主の当然の意見と、将来北高に行くことになる鶴屋さんを深く関わらせるべきでないという俺の意見により、俺は機関に対し
「鶴屋さんには手を出すな」と厳命することとなった。



第 五 章


機関の運営は無事に軌道に乗り始めた。立ち上げは成功したと言える。
俺はハルヒが高校一年の時代に飛び、あらためて歴史を確認してみた。
当然ながら、相変わらずハルヒは進学校に通っていた。
ハルヒの情報爆発から三年が経過している。ハルヒの存在に気づいている連中は、ハルヒの観察役として進学校にエージェントを潜入させているはずだ。
ならばこの歴史での進学校の名簿を調べて、俺の記憶にある北高生と照合すれば、ハルヒの存在に気づいている連中をあぶり出せるかもしれない。
そして俺は機関が入手したそれを見て、ただ呆然としてした。
俺の知る北高の同級生の多くが、この歴史では進学校に通っているという事実を知ったわけだ。
中でも、俺の知る一年五組のクラスメイトたちは圧巻で、およそ三割がこの進学校に、しかもハルヒと同じクラスに入ってやがる。
ハルヒのクラスの名簿には、朝倉を筆頭に、朝倉の相棒だった委員長の榊など、そうそうたるメンバーが名を連ねていた。
やれやれ、こいつら全員どこかの怪しげな組織の構成員だったとはな……
正直なところ、谷口や国木田、阪中の名前がその名簿になかったことに、俺は安堵した。
あいつらまでもが得体の知れない組織の構成員だったりしたら、俺の疑心暗鬼はトラウマ化して修復不可能となっていただろう。
こうした情報を得られたのは俺としても非常に有益だったが、そろそろ歴史のズレを確認する作業の効率化を図るために、いや手段と目的が入れ替わってるな、高校一年の俺とハルヒを出会わせるためにやらなくてはならないことがある。

ハルヒを北高に入学させなくてはならない。

俺はこの件について考えることをなるべく先送りにしていた。
それはなぜか?
考えれば考えるほど厄介な矛盾がこの命題に含まれているからだ。
ハルヒを北高に入学させるためには、高校一年の俺が当時から三年前の七夕に行き、北高生であるジョン・スミスの存在を中学一年のハルヒに覚えてもらわないといけない。そして、当時の俺はそれを朝比奈さんに依頼により実行した。
だが現在の歴史では未来人組織は発足していない。その証拠に進学校にも北高にも朝比奈さんの姿はないし、その他の未来人らしき人物が機関の報告書に記されることもなかった。
仮に先に未来人組織が発足し、朝比奈さんがこの時代に来たとしても、七夕の歴史がない限りハルヒは北高には行かず、ハルヒの監視員である朝比奈さんも北高に行くことはない。
であれば北高に通う俺が朝比奈さんに出会うこともなく、朝比奈さんに連れられて過去に行くという歴史が発生することはありえない。
つまりはこういうことだ。
――ハルヒを北高に行かせるためには朝比奈さんが北高に行く必要があり、朝比奈さんを北高に行かせるためにはハルヒが北高に行く必要がある――
卵が先か、鶏が先か。古泉が好みそうなテーマだったが、あいにく俺はそんなことをあれこれと考えあぐねた末に結局何もしない、というような性分は持ち合わせていない。
俺に与えられた特性は、とにかく行動することだ。俺は俺の信じる道を行く。それでいいんですよね、朝比奈さん。

そういうわけで、俺は朝比奈さんの登場を待たずして、高校生の俺の力も借りず、俺自身がハルヒに会いに行く決心をした。
さて、ここで問題がいくつかある。
ハルヒは俺を北高生だと信じてくれるだろうか。
当然ながらサングラスは外し、髭も剃らなければならない。また生やすのに苦労しそうだな。いっそのこと付け髭でも買っちまうか。
ハルヒに会ったのは午後九時過ぎで、かなり暗がりだった。少し身長は伸びているものの、制服さえ着ればおそらく何とかなるだろう。いや、何とかしないといけないのだが。

そしてもうひとつの問題。
俺は一人でハルヒに会いに行っていいものだろうか。
あのときハルヒは朝比奈さんを背負った俺を見て、怪しい奴だと思ったに違いなかった。だがその怪しさが逆にハルヒの興味を惹いたという可能性だってある。
俺一人だけではハルヒは相手にしてくれないかもしれない。単独の俺は実に平凡な風体だからな。実は俺は人類初のタイムトラベラーという地球の歴史の中でもオンリーワンの属性を有しているのだが。
ならば、俺は誰かを担いでハルヒに会う必要がある。では誰がいいか。
ジョン・スミスと同様、ハルヒはきっと朝比奈さんの人相を明確に覚えてはいまい。
だが、こういう仮説もありうる。ハルヒは、あのとき俺が背負っていた朝比奈さんの姿をおぼろげに覚えていて、それが高校一年の時にSOS団員として朝比奈さんを選ぶきっかけになったのかもしれないと。
ならば、なるべく朝比奈さんに似た人物を選ぶのが無難だろう。
そして俺にはその心当たりがあった。
それは、誰あろう俺の妹だ。妹は成長するに従い、どういうわけか朝比奈さんにとてもよく似た風貌になっていた。
我が家の家系と朝比奈さんに何らかの関係があるのではないかと疑うに充分なほど、妹は朝比奈さんの面影を確かに引き継いでいた。いや、朝比奈さんが妹の面影を引き継いでいると言うのが時系列的には正しいのだろうが。
ハルヒだって不思議がっていたからな。久しぶりに見た妹に思わず「みくるちゃん?」と声をかけるくらいだった。妹自身は失礼なことに朝比奈さんのことをすっかり忘れていたみたいだったが。
よし、シナリオは決まった。

俺は妹が高校生二年の頃に時間移動し、幸いにも北高に通っていた妹の下駄箱にラブレターチックな手紙を放り込み、人気のないところに誘い出した。朝比奈さん(大)が提唱する、タイムトラベラーのスタンダードなコミュニケーションのメソッドだ。
そして待ち合わせ時間丁度にやって来た妹の背後から気づかれないよう近づき、以前朝比奈さん(大)が朝比奈さん(小)にやったのと同じ方法で眠らせた。
その方法とは実に簡単なもので、TPDDの知覚システムを応用し相手の脳内の知覚分野にわずかに刺激を与えるだけだ。なぜそんなことを誰にも教わらずに出来たかって? 古泉ならきっとこう答えるだろう。解ってしまうんだから仕方がない、と。実に便利だな、この言葉。
それにしても、まさか実の妹に誘拐まがいのことをするハメになるとはな。全くやれやれだ。妹よ、悪く思わんでくれ。
妹を背負った俺はすぐさま時間移動をおこなった。俺やハルヒが中学一年のときの七夕。午後九時へ。
移動先は変わり者のメッカ、光陽園駅前公園。
ベンチには当然ながら、二人の朝比奈さんの姿も、高校生の俺の姿もなかった。
あのときと同様、周囲の目をはばかりようもなくはばかりながら、俺は東中に向かった。
到着した校門の前では、俺が知る中学生のハルヒが、俺が知る姿そのままで、今まさに校門を乗り越えようとしていた。
ハルヒに声をかけ、一言二言会話をし、体育用具倉庫の裏に行き、石灰と白線引きをリヤカーに積み、妹を倉庫の横に寝かせた。すまん妹よ、もうしばらく寝ていてくれ。
以前と同じくハルヒに命令されるまま、俺は汗だくになりながらハルヒ考案の宇宙人語を三十分ほどかけて描いた。
「それ北高の制服よね」
俺は高校一年のときより七つも歳を取っていたが、暗がりのせいかハルヒは北高生だと信じてくれたようだ。
そして俺はジョン・スミスと名乗り、ハルヒと別れた。
おっと、忘れていた。慌ててハルヒの後を追う。
「世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!」
これを言っておかないと、SOS団が別の名前になりそうだからな。
これで本当に大丈夫なのだろうか。もしハルヒが北高に行かなかったら、それは俺の魅力が高校生の頃と比べて衰えているということだろう。重ねて言うが、やれやれだ。

俺は元の時空間に戻り、妹を降ろして再び脳内操作をおこなった。あと一分もすれば目を覚ますはずだ。妹からすれば、一瞬気を失っただけと思うだろう。何しろ待ち合わせ時間から一分しか経ってないわけだからな。

機関の報告書に目を通し、俺はやっと一息つくことが出来た。
ついにハルヒは北高に入学した。そして、高校生の俺とハルヒは入学式の日に出会った。
報告書によれば、俺とハルヒは俺の知る歴史どおりに話し出すようにはなったらしいのだが、SOS団は結成されなかった。原因はわからない。
当然ながらハルヒと結婚する歴史にも至らなかった。
朝倉や喜緑さん、他の組織のエージェントたちも北高に現れたが、長門は未だ姿を見せない。
やはり元の歴史に戻すためには、まだまだ既定事項が足りないということだろう。
古泉を北高に送り込むのはいつでも出来るが、それでもおそらくSOS団は結成されないはずだ。古泉が転入する前にSOS団が作られたわけだからな。
ハルヒは、宇宙人、未来人、超能力者、異世界人の出現を待ち望んでいた。異世界人は結局俺も会ったことがないからこの際除外しよう。
つまり、長門、朝比奈さん、古泉が揃うことが、歴史を正しい流れに引き戻すための条件なのだろう。

いよいよ最大の難関である未来人組織発足のきっかけをつくる必要がある。
未来に関する既定事項は五つだ。朝比奈さん(大)はそれを未来への分岐点と呼んでいた。
少年が俺に助けられること。
少年が俺に亀を与えられること。
少年がハルヒの書いた論文を入手すること。
例の住所の住人が記憶媒体を入手し、少年がそれを譲り受けること。
ある未来人の先祖を病院送りにすること。
そしてここでも大きな矛盾が生じる。
高校生の俺が時間移動理論の研究者となる少年を助けたり、亀を与えたりしたのは、やはり朝比奈さんの指示によるものだ。朝比奈さん(小)に連れられて俺は少年を救い、朝比奈さん(大)の指令により俺は亀を川に投げ込んだ。
だが、現時点ではどちらの朝比奈さんもこの時代には現れない。少年が時間移動理論を研究しないと未来人組織が発足することもなく、未来人がこの時代に干渉することはないはずだ。
そして既定事項を順守するならば、少年が時間移動理論の研究に着手するためには高校生の俺が少年に干渉する必要があり、そのためには朝比奈さんが不可欠だ。
またしても堂々巡りである。なんだって朝比奈さんはこんなややこしいことをしてくれたんだ?
それとは別の重大な矛盾もあった。
少年が時間移動理論を研究するためには、少年がハルヒの論文を入手し、記憶媒体を例の住所に送る必要がある。
だが、今の歴史上にハルヒの論文は存在しない。まだSOS団さえ結成されていないんだからな。
それにあの記憶媒体はパンジーの花壇に今も落ちているのか? おそらくそれはないだろう。あれは明らかにこの時代のものではなく、未来アイテムだ。
そしてあれが仮にあの敵対未来人組織の憎たらしい野郎がこの年代に持ってきた物だとしても、未来人組織が発足していないこの歴史の流れから考えれば奴がこの時代に現れることもありえない。
これはやはり、七夕の時と同じように俺が無理矢理に歴史の端緒を開かなければならないようだった。

俺はやれることから一つずつ始めることにした。そうさ。夏休みの宿題を最後の一週間になってようやく手をつける、それが俺のやり方なんだ。
ハルヒだったらどうするんだろうな、こういうときは。

そういうわけで、俺はまずは少年を助けることにした。
これはおそらく朝比奈さんがいなくても問題はなかろう。少年にとって朝比奈さんの存在がそれほど重要だとは思えなかったからな。
問題は少年を襲う未来人もいないということだが、それも誰でもいい。とにかく少年が襲われればいいと俺は考えた。
つまり、こういうシナリオだ。俺が機関を使って少年を襲わせ、俺が助ける。要は自作自演だ。
一旦未来人組織が発足する歴史さえ作れば、後は朝比奈さんと、朝比奈さんの敵対未来人が本来の歴史で上書きしてくれるに違いない。そしてその実行部隊として、高校生だった俺に白羽の矢が突き刺さるわけだ。
自業自得とか因果応報とか、そういう四字熟語が今の俺にはふさわしいね。
俺は、俺が高校一年だった頃の冬に飛び、機関本部の森さんのオフィスに足を運んだ。
「詳しい事情は説明出来ませんが、明日の○○時××分頃に、△△の踏み切り前を通りがかる少年を車ではねてもらえませんか」
それを聞いた森さんは、顔色ひとつ変えずに、
「殺しですね」
と即答する。目がマジだ。正直言って、体中の力が抜けそうなくらい怖い。
「いや、心配しなくていいです」
心配しているのは俺の方なんだが。
「結果的には俺が助けることになりますんで」
明らかに不可解そうな顔つきで俺を見た森さんだったが、
「なるほど、何か理由があってのことなのですね」
と、結局のところは納得してくれた。

そして、俺は例の時間の例の場所に行き、少年と車を待った。
たとえ二度目とはいえども、文字どおり一歩間違えれば俺の命だって危ない。
そして少年は現れ、俺は心拍数を五十くらい上げつつも、機関がおそらく臨時で雇ったであろうドライバーに轢かれそうになる少年をなんとか助け出すことが出来た。多少手心を加えるようにと言っておくべきだった。
俺は少年の名を訊ね、朝比奈さんの代わりに少年と約束をし、指きりをした。
やれやれだ。少年よ、すまん。危ない目に遭わせたのも実は俺なんだ。
いや、礼なんか言わなくていい。泣きたくなってくる。
少年が今日のことをハルヒに伝えたとして、誰ひとりとして被害が及ばないことだけが救いだった。
あのときの俺と朝比奈さんの受難は二度と思い出したくもない。
そして、あのときのハルヒの気持ちを考えれば、なおさらだ。

次に手軽に出来そうなのは、朝比奈さん言うところのある未来人の先祖を病院送りにすることだ。
これは一人でいいのか?
あのときの朝比奈さん(大)からの指令書には『必ず、朝比奈みくるとともに』と書かれてあった。
あの場所に朝比奈さん(小)が一緒にいたことが、どういう理由で重要だったのだろうか。
俺は推測してみた。気の毒にイタズラにひっかかり病院送りとなった男性は、その後病院で知り合った女性と結婚することになる、と朝比奈さんは言っていた。
あの男性は、俺に向かって朝比奈さんのことを彼女かと尋ね、あのときの俺はそう言っておいた方がいいだろうと判断し、肯定した。
もしかしたら、あのときの俺と朝比奈さんの姿が、その後の男性に何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。
こんな小僧にも彼女がいるのなら俺も頑張らないとな、みたいなことを考えたとしても不思議ではない。

では、誰を連れて行く?
七夕に引き続き、朝比奈さんによく似た俺の妹にご登場願うか?
だが、妹を気絶させたまま男性に会わせるというのは明らかに問題だろう。むしろ逆効果としか思えない。
未来の妹に事情を全部話して協力させるというのも悪い手ではないかもしれない。どうせ未来が上書きされてしまえば、妹の記憶はすっかり塗り替えられるだろう。
だが、妹のあの水素原子並みに軽い口のことを考えると、俺とは別の未来の俺が困った状況に遭うのが容易に想像出来る。俺はそこまで自虐的な性格ではない。
事情を話さずに、喜んでつきあってくれそうな女性。鶴屋さんの顔が思い浮かんだ。
イタズラ好きの彼女のことだからきっと二つ返事で協力してくれるだろう。だが、そういうわけにもいかなそうだった。
俺は中学生の頃の鶴屋さんに素顔を見られているが、高校二年になった彼女にもう一度素顔を見られるのはさすがにまずかった。
既に鶴屋さんは北高に入学した俺に会っていて、今の俺とその俺の関係に勘付いているはずだ。
今俺が鶴屋さんに素顔を見せ、あまつさえ北高の制服など着れば、これはもう100%間違いなくジョン・スミス=高校生の俺という公式が成り立ってしまうだろう。
というわけで、俺はまたしても機関を頼り、パートタイマーの女子高生を調達することにした。
その女性とともに夕暮れの歩道に向かい、五寸釘で固定した空き缶を仕掛け、首尾よく男性はそれを蹴って負傷し、めでたく病院送りとなった。
あなたの子孫がどういう未来を作るのか俺にはよく解りませんが、とにかく頑張ってください。俺は病院に向かうタクシーに向けて心の中でエールを飛ばした。

次におこなったのは、亀を川に放り込み、少年に亀を渡すことである。
これも朝比奈さんはおそらく必要あるまい。
俺は鶴屋家の庭の池からなるべく長生きしそうな小亀を探して捕まえ、葉桜の並ぶ遊歩道に行き、少年の前で亀を川に投げ込み、亀を回収し、少年に手渡した。
そして、念のためにではあるが、今日のことは誰にも口外しないようにと言っておいた。

さて、いよいよ残こされた課題は記憶媒体とハルヒの論文だ。
だが、これらを後回しにしていたからといってその間に何かいいアイデアが浮かんだかというと、そういうことは全くなかった。
記憶媒体の入手方法に関しては、まるで見当がつかなかった。俺がこれから未来に飛び、いつどこに存在するかも解らないそれを探し回るというのはどう考えても非現実的だった。
ハルヒの論文にしてもそうだ。あれはそもそもSOS団を恒久的に存続させるためにと書かれたものだったはずで、SOS団なくしてあの論文が生み出されるとは考えられない。
果たして論文と記憶媒体なしで少年は時間移動理論の研究を進めることが出来るのだろうか?
これは試す価値がある。ひとまず少年と知り合いになる事実は既に作ってある。
もし失敗したら、あらためて論文と記憶媒体の件を何とかしてからもう一度少年にSTC理論を付与する歴史に塗り替えればいい。

俺は、以前少年にSTC理論を付与した日に移動し、少年を訪ねた。
そして、すぐさまこれはダメだという結論に至った。
前回と同じく、タイムトラベルに関する助力が欲しいと言った俺に、少年はこう答えた。
「タイムトラベルですか? 確かに僕はサイエンスフィクションに興味はありますが。あなたは小説か何かをお書きになるんでしょうか?」
どうやら、俺が少年を助けたこと、亀を投げ込んだこと以上に、ハルヒの論文と記憶媒体は重要な意味を持っているようだった。

だが、いくら考えても結論など出るはずもなかった。こういうときは寝てしまうに限る。そうすれば明日いいアイデアが浮かぶかもしれない。
もしかしたら、また都合よく例の夢を見られるかもしれないしな。


薄暗い。寒気を感じる。
木枠に嵌った窓ガラスの方からぼんやりとした灯りが差す。
夜の学校。見覚えのある部屋。
老朽化した天井。ひび割れた壁。木製の扉。
少ない備品が手狭な部屋を広く感じさせる。
長テーブル。パイプ椅子。本棚。
本棚には、厚手のハードカバーから文庫本までがずらりと並んでいる。
窓の外に目を向ける。
グラウンドの方にわずかに光る何かが見える。


目覚めた俺は、あまりのご都合主義的な展開に苦笑する他なかった。
この夢を見せているのは、やはりハルヒ、お前なのか?
俺は、俺が見る夢を全面的に信じるようになっていた。既に俺は二度も夢に助けられている。
これがハルヒの見せている夢だとしたら、俺にはあの場所に心当たりがある。ならばそこに行くしかない。
時空間座標を真夜中の北高に設定し、移動する。
北高に足を踏み入れるのは五年ぶりくらいにはなる。この歳になっても、夜の学校を一人で歩くのは少々怖い。
俺はあのグラウンドに向かい、しばらく歩き回ってみた。たが期待に反して収穫は何もなかった。
あれはハルヒの見せたものではなくて、普通の夢だったのだろうか。

その日の夜、また同じ夢を見た。
文芸部部室から見える、グラウンド上のおぼろげな光。
やはりこれはただの夢ではない。ハルヒが俺を呼んでいるのか?
もう一度夜の学校へと赴いた。だが昨日と同じく何も手がかりは得られない。
そうか。つまり場所だけではダメなんだ。「どこ」だけではなく「いつ」が必要なのだ。
俺は夢の内容をもう一度思い出してみた。
俺は夢の中で寒気を感じていた。ならば季節は冬か?
違う。それは季節を表すものではない。俺はその寒気を既に何度か経験していた。夢の中で、そして現実世界で。
つまりそれは閉鎖空間を暗示しているはずだ。
グラウンド。閉鎖空間。
俺とハルヒの二人だけのモノクロームの世界の中で、俺たちは始めてのキスをした。今でもあの時のことを鮮明に思い出せる。
そして同じくモノクロームの世界、様々な存在の様々な思惑が入り混じったあの空間で、俺たちは二度目のキスをした。
このどちらかの日に違いない。

時空間座標を設定し、俺はあの日、あの時間のあの場所へと飛んだ。
高校一年の五月下旬。ハルヒが最初に世界改変を試みたあの日。午前二時を少し過ぎた頃。
到着するなり、寒気が俺を襲った。間違いない。この歴史でも同じ時間、同じ場所に閉鎖空間が発生している。
グラウンドの中でも最も寒気が顕著な場所を探した。
どうやら古泉たち超能力者は、閉鎖空間の発生には気づいていないようだ。周囲に連絡用エージェントの姿が見えないのがその証拠だ。
つまり、これは俺のためだけに作られた閉鎖空間だということなのか。
しばらく後に、不意に寒気が消えた。
あたりを見回してみる。だが何も変化らしきものはない。
やれやれだ。ため息をついた俺は、ようやく足元にあるそれを発見した。今さっきまでは存在しなかった、薄茶色の封筒。
B4サイズのその封筒を開いた。
そこには、この歴史では決して存在するはずのない、あの日俺たちが作り上げた文芸部機関紙と、パンジーの花壇に落ちていた記憶媒体が入っていた。
ハルヒ、お前は別次元の世界から俺にこれを送ってくれたのか?

俺は文芸部機関紙の中から『世界を大いに盛り上げるためのその一・明日に向かう方程式覚え書き』と題されたハルヒの論文だけを抜粋し、匿名で少年に送った。同じく記憶媒体を手帳に書かれてあった住所に、やはり匿名で送った。
これで後は少年に再び会えば、前と同じシチュエーションで少年にSTC理論を付与出来るはずだ。

俺は少年にSTC理論を付与した日、時間に移動した。
体が揺れる感覚の後、その時代に到着した俺は、眼前に立っている人物を見て唖然とした。

目の前にいたのは、もう一人の俺だった。

なるほど、そうか。こいつは数日前に少年にSTC理論を付与しようとして失敗した俺だ。
つまり、今の俺がわざわざもう一度ここに赴かなくても、目の前の俺が少年に会ってSTC理論を付与してくれるわけだ。
だったら、もしこいつが今これから少年へのSTC理論の付与に成功した場合、こいつはハルヒの夢を見るのだろうか? 文芸部機関紙と記憶媒体を得る未来は生まれるのだろうか?
嫌な予感が頭をよぎった俺は、慌てて目の前の俺に声をかけ制止した。
振り返ったそいつは、当然のように唖然としている。当たり前だ。俺だってさっき同じように驚いたんだからな。
俺は初めて時間移動をおこなったときに、一分後の俺、一分前の俺と会ったことがある。その時は何が起こっているのかをすぐに理解出来た。
だが今回は違う。お互い、まさか自分が現れるなんて夢にも思っていなかった。目の前の俺もこの俺も。
俺は数日前の俺の迂闊な行動を後悔した。
「お前は誰だ」
「見てのとおり、俺はお前だ。未来の俺だ。ここはまずい。場所を変えよう」
「先にわけを話してもらおうか」
我ながら面倒な性格の奴だ。
「こんなところを人に見られたらまずい。とにかく移動が先だ」
過去の俺は渋々ながら承諾し、俺たちは人気のない場所を探して、近くの路地に移動した。
「俺はお前がいた時間より少し未来から来た。確か三日後だ」
時間移動を頻繁に繰り返すと、日時の感覚が著しく麻痺する。三日後で合ってるよな?
「何のために来たんだ?」
「三日前の俺は、彼にSTC理論を与えるためにここにやってきた。それが今のお前だ。これは解るか?」
「ああ」

「そしてその試みは失敗に終わる。少年に『SF小説でも書くんですか?』とか言われてな」
「散々な結果だな」
「全くだ。それで俺はその後ある方法でハルヒの論文と記憶媒体を手に入れた」
「何だと? お前、一体どうやってそれを手に入れたんだ」
「教えてやりたいが、それを言うと俺の歴史とお前の歴史に食い違いが起こるかもしれん。だから言えん。今こうして俺とお前が話しているだけでも既に食い違いは起こっているんだからな」
「やれやれ、全く面倒くさい話だな」
「全くだ」
二人の俺は同時に肩を竦めた。息もぴったりだ。当たり前だがな。
「それで、俺はこれから彼に再度STC理論を与えに行くところだったんだ。だが俺は過去の俺、つまりお前の存在をすっかり忘れていたというわけだ」
「なるほど話は解った。ならば俺はこのまま元の時間に戻り、ハルヒの論文と記憶媒体を探せばいいということだな」
「そう言うことだ。あまり考えすぎなくていい。果報は寝て待てだ。これ以上詳しいことは言えん」
「未来の俺がそう言うんなら、そうなんだろうな。覚えておくよ。じゃあな」
過去の俺は立ち去ろうとして、しばらくして立ち止まり、少し考えた様子を見せて振り返り、そしてこう言った。
「ということはだな。俺たちは前に七夕に行ってハルヒに会ったり、少年を助けたり亀を与えたり、色々したよな」
「ああ」
そこまで聞いて、俺はこいつの言いたいことが解った気がした。
「つまりは俺たちが元の既定事項と違う行動を取っている、例えば高校生の頃の俺たちの行動を肩代わりしているようなケースは、全て今回と似たようなことが起こるということか」
予想は当たっていた。確かにそのとおりだ。
「やれやれだな」
「やれやれだ」
二人の俺は同時に首を振った。息もぴったりだ。当たり前だ。そんなことはどうでもいい。
これから先のことを考えると正直なところ頭が痛かった。

こうして俺は、過去の俺にご退場願い、少年の元に向い、無事に少年にSTC理論を付与することが出来た。
ハルヒと結婚する事実のないこの歴史では、以前のシナリオとは多少異なる点はあったものの、幸いなことにハルヒが死ぬことを防ぐという俺の意向に少年は全面的に賛同してくれた。

おそらくこれで未来人組織発足のきっかけは生まれたはずだ。
俺は高校一年の頃の時代に飛び、機関作成の名簿を調べてみた。
二年の朝比奈さんがいたクラス。
だが、予想に反して朝比奈みくるの名は見当たらなかった。
おかしい、まだ未来人組織は発足していないのか?
他のクラスも調べてみた。それは一瞬で完了する。名簿の先頭の方だけ見ればいいわけだからな。
やはり朝比奈みくるの名はどこにも記されていなかった。
それからしばらく後の機関の報告書に、未来人という単語が載るようになった。
それには「二年×組の生徒で、言動に不審のある生徒を確認。その内容から未来人の可能性あり。現時点では確証なし。詳細要調査」と書かれてあった。
名前は書かれていない。
俺は森さんに問い合わせ、内容を確認した。
「彼女は一年の時から既に北高に入学していたらしく、時おり言動がおかしい、現代人なら誰もが常識として知っているはずのことを知らない、などの特徴が見られるとのことです」
俺は朝比奈さんを思い出していた。そうだよな、あの人はそういうそそっかしいところがあったよな。
「そいつの名前を教えてもらっていいですか」
「本来はまだ名前をお伝えすることは出来ないんです。敵対組織のダミー工作員の可能性がありまして。つまりいかにも未来人のような言動をとることで我々の反応を見るために送られた他組織のエージェントかもしれないということです」
全く森さんも色々と考えているもんだ。いや、実際に北高ではそのような謀略戦が繰り広げられているのかもしれない。
「ですので、これは他言無用ということでお願いします」
そして、俺はその名を聞いた。やはりそれは全く別人の名前であった。

「写真を入手出来ますか。確認しておきたいのですが」
もしかしたら、名前だけ以前と異なってはいるが、実は俺の知る朝比奈さんが来ているのかもしれない、と思ったからだ。
「私の手元には既に送られています。これも機密扱いでお願いします。確認後速やかに消去してください」
「もちろんです」
電子メールですぐさまそれは送られてきた。
添付ファイルを開いてみる。
パソコンのディスプレイには、まさに朝比奈さんとは全く似ても似つかない女性が映し出されていた。
その後の機関の調査で、その女性は間違いなく未来人だという結論に達した。
つまり未来人組織は確かに発足したのだ。そして朝比奈さんがいないこの歴史では未だにSOS団は結成されない。
なぜ朝比奈さんは来てくれないんだ?

俺は未来人に関係する既定事項を洗いなおしてみた。
少年に関係することはおそらく問題ないはずだ。実際に未来人組織は立ち上がっている。
記憶媒体に関しても正しい住所に送り、めぐり巡って少年に届いていた。あの媒体と朝比奈さんに関連性があるようには思えない。
その二つは俺の取った行動とその結果の因果関係が明らかだった。
だとすれば、残っているのはあのイタズラで怪我をした男性だ。
彼を病院送りにしたことがどう未来に影響しているのかを見極める必要がある。朝比奈さんは言っていた。彼は病院で女性と出会い、子供をもうけ、その子供はさらに子孫を残すと。
男性の子孫と朝比奈さんに何か関係があるのかもしれない。もしかしたら朝比奈さんが彼の子孫そのものなのだろうか。

俺は男性の系譜を追い始めた。
まず俺は怪我をさせた男性の病院に飛んだ。男性は朝比奈さんが言ったとおり、病院で女性と知り合った。
男性が退院するタイミングを見計らい、俺は空間移動を使いながら男性を尾行し、住所をつきとめた。
男性はその二年後、知り合った女性と結婚した。予定どおりだ。
ここで少し油断した。結婚後しばらくして二人は別の場所に住居を構えた。慌てて転居先を探す。頼むからあまり引越しはしないでくれよ。
その住所を元に、数年おきに住民票を入手する。それで家族構成はほぼ解った。
男性は結婚後一年で女の子を、五年後に男の子をもうけた。それ以降はどうやら子供は生まれていないようだった。

俺は今後の調査方法を考えた。
結局男性の家族構成を調べるのにほぼ一日かかった。彼の子供は二人だ。その二人はおそらくやがて結婚し子供をもうける。その子供が二人ずつだとすると、三代目の調査対象は四人になる。仮に子孫が二倍ずつ増えていくとしよう。この法則でいけば、五代目では十六人、十代目では五百十二人になる。二十代先まで追えば、実に524288人となる。系譜を追うに従い調査対象は等比数列的に増え続ける。
524288人を調べるとなると、一人を調べるのに一日かけたとしても1436年かかる計算になる。明らかに俺一人では不可能だ。
文字通りネズミ講だな。いやそれは失礼な例えだった。人間はそれほど多産ではない。これがひと昔前であれば、子供を五人くらい産むのも当たり前のことだろう。俺は少子化をこれほどありがたいと思ったことはなかった。本来ならありがたがる話ではないし、未来でも少子化傾向が続いているという確約もないが。
だが俺はおそらくそれほど先の代まで調べる必要はないだろうと踏んでいた。
なぜなら朝比奈さんたち未来人は、彼女たちの時代に生きるある人物の先祖があの怪我をさせた男性だということに行き着いたからだ。
その人物の親というのは必ず二人、その親二人の親も間違いなく二人ずつだ。一切の例外はない。ならば未来から過去の系譜を追うのも、過去から未来の系譜を追うのも共に等比数列に違いなく、同じだけの労力がかかるはずだ。

未来人組織がのべ1436年もかかる調査をするとは思えなかった。朝比奈さんは俺の生涯を調べることですら大変な作業だったと述懐していたからな。
考えていても仕方がない。俺は俺の直感に従いただ行動するのみだ。
十代目まで系譜を追ったとしても一年半はかかる計算になる。だが俺にはこれ以外に、朝比奈さんが俺たちの時代に来るための手がかりを得る方法は思いつかなかった。
俺は機関の運営に関する仕事の合間を使って調査を続けた。
住民票を調べる手は二代先あたりで使えなくなった。役所での個人情報保護が厳密になり、第三者がそれを閲覧することが極めて困難になっていたのだ。
調査の効率化のために郵便物の盗み見もしたが、この手もやはりしばらくすると使えなくなった。ほとんどの郵便物が電子メールに置き換わったらしかった。
そういうわけで調査の手段は住居の張り込みのみとなった。
ここで具体的な張り込みの方法を紹介しよう。
人は子供を作る場合もあれば作らない場合もある。結婚していようがしていまいが。
大体の場合、女性は二十歳から四十歳の間に出産するが、念のため十六歳から五十歳までを調査範囲とする。
その三十五年間をだいたい四ヶ月置きくらいに飛んで子供の有無を調べるわけだ。つまり一人あたりおよそ百回だ。
住居をしばらく張っていれば、母親の出かける時間が解るようになる。主にその時間を中心に張り込みをおこなう。
規則正しい生活を送っている人とそうでない人で多少ブレが生じるが、だいたい一回の張り込みに平均十分かかると思ってもらいたい。
つまり、一世帯の家系を調べるのに千分。およそ十七時間かかるということだ。
母親が妊娠したかどうかはお腹を見れば解る。お腹の状態で出産の予定日の予想を立てる。そんなに厳密に調査しなくても、二年置きくらいで大丈夫だろうって?
だが、生まれてまもなく養子に出されるケースだってあるかもしれない。だから俺は正確に出産日を見定めることにした。
出産の際には病院に行くことも欠かさない。万一双子が生まれて片方が出産後すぐに養子に出されでもすれば、四ヶ月置きの張り込みだけではまずそれを知ることは出来ない。
俺はお腹の状態から出産予定日を判断するという、おそらく産婦人科医並の技能を身につけ、他の誰よりもこの男性の系譜について詳しくなった。

この調査方法はあくまでも女性の場合であり、男性の場合は生殖機能が衰えない限り調査範囲は女性に比べて飛躍的に増大する。
その気になれば六十、七十歳くらいでも充分子供を作ることが出来そうだからな。
これは大変な作業だった。ある者は離婚して別の家庭をつくり、ある者は妻以外の女性に子供を産ませた。
その度に増え続ける調査対象に俺は頭を抱え、自らの運命を呪いながらひたすら張り込みを続けた。

調査日数がのべ九ヶ月間に差し掛かり、調査結果の書き込まれた家系図が畳一枚分ほどの大きさになった頃にそれは起こった。
いつものように張り込みをしていた俺は、ある日異変に気づいた。
それは彼の八代先の子孫のひとりで男性だった。その男性が二十台後半の頃のことで、彼には妻も子もいなかった。
そいつが住居に戻らなくなった。やがてそこには別の人物が住み着くようになった。
引越しでもしやがったか? くそっ、どこに行きやがった。
俺は時間を絞り込み、引越しの瞬間を探した。
だが彼がいなくなってからしばらく張り込みをしたが荷物が運び出された形跡はなかった。
これはひょっとして失踪ってやつか?
俺は彼を最後に見かけた時間に戻った。彼を張り込んでいる少し過去の俺には見つからないように離れた場所へ。また面倒な説明をする気にはなれなかったからな。
首尾よく彼の姿を見つけた俺は尾行を開始した。
しばらく尾行を続けた俺は、まずいことになったな、ということに気づいた。
どうやら尾行がバレているらしい。
彼は周囲を見渡しながら何かを探すような歩き方を装い、同じ道を別の方向から二度通った。
俺がそれに気づいたのは、二度目にその道から大通りに出た時だった。
俺は直ちに尾行を中止した。
俺の張り込みは四ヶ月に一度だ。ならば、張り込みの事実まではおそらく気づかれてはいまい。

俺はおよそ一年前に戻り、再び彼を尾行した。
だが驚くべきことに、彼は前回と同じ歩き方で、別のルートではあったが二度同じ道を通ったのだった。
これは気づかれているのではないかもしれない。つまり彼には常に尾行を意識して生活をしなくてはならない理由があるということだ。
俺は手ごろな建物の屋上を探し、しばらくの間遠くから彼を観察することにした。
彼は毎日決まった時間に住居を出て、毎日異なる何パターンかのルートを通ったあとオフィスビルに入り、夕刻頃そのビルから朝のルートを逆行し、どこにも寄り道することなく住居に戻っていった。
このままでは進展はない。俺は四ヶ月先の彼を最後に見た日、つまり俺が途中で尾行を断念した日に戻り、意を決してビルに入ることにした。ここで調査を諦めるわけにはいかなかった。
何か危険な状況に立たされたとしても、俺には時間移動という武器がある。
あらかじめビルに入り待機する。彼がやってきた。一人でエレベータに乗る。同乗するわけにはいかない。エレベータの行き先表示を確認する。エレベータは四階で止まり、そして一階まで戻ってきて一人が降りた。四階には三つの会社がオフィスを構えていた。ならば彼はこのうちのどれかに勤めているのだろう。
俺は彼がエレベータから降りる少し前の四階に時間移動し、非常階段の踊り場に隠れ、彼を待ち伏せることにした。
エレベータが開いた。
おかしい。誰も降りてこない。
なぜだ?
後ろから肩を叩かれた。
そこには俺がさっきまで追っていた、エレベータに乗っているはずの男性が立っていた。
「なぜ俺を追っている」
やっと理解した。こいつはTPDDを持っている。俺は待ち伏せするつもりでこいつに待ち伏せされたんだ。
男性は微妙に口の端を歪めた。笑みとも不満とも取れる。
「お前、まさか能力者か? だがそれならなぜこんな尾行の仕方をする。まるで素人だ」
確かに尾行に関して俺は全くの素人だった。

「お前は何者だ。俺が知らない以上、少なくとも仲間ではないようだが」
「俺はあなたの敵ではありません。TPDDを持っているのは確かですが」
「待て」
男性の顔に明らかな困惑の色が滲み出ていた。
「お前、なぜ禁則がかかっていない? たとえ奴らの組織であろうとTPDDという単語を発せられる能力者はほとんどいないはずだ」
「なぜと言われても説明出来ません。俺にはもともと禁則事項が具体的にどういうものかもよく知りませんし」
「詳しい話を聞かせてもらおうか」
ここで俺は時間移動で逃亡することも出来たが、それでは調査は進展しない。それにこの男性が何らかの鍵になっているのはおそらく間違いないだろうと思えた。ここは素直に従ったほうがいい。
俺と男性はビルを出て近くの公園に行った。
男性は周囲に人の気配がないことを確認し、さらに手を耳に押し当て何かを確認するかのような仕草をした後、ようやく話し始めた。
「君は一体何者だ」
「詳しくは話せませんが、俺は過去から来ました」
「過去?」
「ええ。ここよりおよそ二百年前です」
「二百年前だと!?」
男性の困惑がさらに色濃くなった。
「俺の知る限りTPDDを最初に得ることの出来た人物が現れたのはおよそ六十年前だ。今までにTPDDを得た人間というのはほぼ例外なく俺たちの組織にプロフィールが残っている。
今のところ、それが敵対組織の人間であってもだ。そのリストに間違いがなければ、今までにTPDDを得られた人物はわずか三十七人。そして俺たちのような能力者はそれらの人物を全て記憶している。その人物の幼少期から老年期の姿まで全てだ。だがそのリストには君は含まれていない。これはどういうことだ?」
どうやら、STC理論を与えたときに少年が危惧していたような、誰もが時間移動の存在を知るような危なっかしい未来にはなっていないようだった。

俺はなるべく正直に話すことにした。
突発的にTPDDを得たこと、少年にSTC理論を付与したこと、おそらくそれが源流となって今この時代にTPDDが伝わっているであろうこと。
少年の名前を聞き男性は頷いてみせた。俺への猜疑心が少しは薄らいだのだろうか。
「仮に君が二百年前の人間だとして、何のためにこの時代にやってきた」
「ある女性を探しています」
「女性? それは君とどういう関係があるんだ?」
「名前は朝比奈みくると言います。ご存知ないですか? その女性もあなたの言う能力者ということになります。彼女はあなたの組織に所属していて、俺たちの時代に来るはずです」
朝比奈さんがこの男性の先祖を知っているということは、おそらく同じ組織の人間のはずだ。
「なるほど。その名に覚えはないが、つまりあの計画と関係があるということか。辻褄は合う」
「計画……ですか?」
「俺たちの組織は今から二年前に過去の事象を観測するシステムを作り上げた。それまでは過去を知るためにはTPDDを持つものが過去に赴き、駐在して調査する必要があった。まあ今でも詳細の史実を調べるには駐在員を送る必要があるんだがな。俺たちはそのシステムにより、今からおよそ二百年前に起こった大規模な時空振動を検出した。それの調査のために俺たちは新たに能力者を開拓し、過去に送り込むことが必要になったんだ」
なるほど、この時代でようやくハルヒの時空振動を発見したらしい。そしてその調査要員に朝比奈さんが含まれていたということなのだろう。
「それを実現するためには、俺たちには新たなスポンサーが必要だった。そしてそれは実に厳正に選ばれた。何しろ俺たちの組織の存在と活動内容は機密中の機密で、それはいかなる権力にも知られてはいけないことだった。だが、結局のところそのスポンサー筋から極一部の人間に情報が漏れ、俺たちとは違う別の能力者組織が生み出された」
それがあの朝比奈さんを誘拐した野郎や、閉鎖空間に現れた敵対未来人の連中なんだろうな。

「俺たちの組織は原則として歴史、これは我々の用語で既定事項と言うのだが、それを遵守したうえで過去の歴史を調査しそれに学ぶことに重きをおいている。だが敵対組織はこの時代の人類に都合のよい歴史を作るために能力を活用しようとしている。言い換えれば、俺たちは歴史の歪みを生み出さずにより良い未来を作ることを目標にし、奴らは歴史の歪みを大きくすることでそれを実現しようとしている。どちらが人類にとって正しい選択なのかは正直なところ俺にも解らない。解っているのは俺たちと奴らの、既定事項に関する考え方が明確に異なっていることだけだ。とは言え、我々と彼らには共通して守らなければならないことがある。それが禁則だ」
「禁則とは結局どういうものなんですか」
俺は今まで漠然と抱いていた疑問を正直に訊ねた。
「突き詰めて言えば、あらゆる人間に対して未来に至る既定事項の秘密を守る、ということに尽きる。過去から未来を守るために重要なことだ。つまり俺たちと奴らの組織は、同じ未来人という点で、禁則に関しては共通認識が出来上がっている。禁則を破るということは、お互いの組織の目的とは別の次元で絶対にあってはならないことだ。禁則を破ることで未来に生じる影響は誰にも正確な予想は出来ない。だから時間平面移動の研究は能力者のコントロール方法と一体で進められてきた。言わば核兵器以上に慎重な扱いをしなければならないものだ」
随分と物騒な話になってきた。
「禁則は我々のような能力者にとっては絶対に破ってはならない不可侵な領域なんだ。そういう理由で、禁則が適用されない能力者は一人の例外もなく存在しない。あらためて問う。君は一体何者なんだ?」
「それは申し訳ないですが言えません。何となく言わない方が良いような気がしますので」
「なるほど。未来人であれ過去人であれ、必要以上の情報を得ることが必ずしも正しいこととは言えないからな。それに君が言いたくないのならば俺たちにそれを強要する術はない。仮に俺たちが君を拘束したとしても、君は時間移動によりいつでもその状況から抜け出せるわけだからな。俺がそうであるように」
男性は心なしか楽しげな表情を見せた。
「だが、あといくつか質問させてくれ。答えてくれなくても構わない」
「解りました」

「君はどうやって俺に辿り着いた? この時代でも俺が能力者だということを知るものは数える程しかいない」
「あなたの先祖からの系譜を追ってここまで来ました」
「なるほど。つまり君が過去で出会った未来人が俺の先祖に関して何らかの情報を残したということだな。それは解った。もうひとつの質問だがいいか?」
「ええ」
「大体でいい。君の出身地はどこだ?」
俺はその問いに正確に答えた。一体何の意味があるのだろう。
だが、俺の答えに男性は深く頷いた。
「TPDDは限られた人間にのみそれを得る素養がある。そしてそれはある地域にルーツを持つ人間に限られるんだ。そう、君が生まれた地域だ。時間平面理論の研究もその場所から始まった。現段階ではその理由は我々には一切解らないがな。そして今回発見した時空振動もどうやらその周辺で発生したものらしい」
ハルヒは機関に所属する超能力者だけでなく、TPDDを得る能力者も地域限定で生み出していたということか。まあ世界中にそういう連中が拡散しているよりはよほどマシとは言えるが。
「今日君に会ったことは俺の胸の内にしまっておくことにする。いつかの時代の誰かが、禁則を破ってまで君に俺の先祖を教えたことにはきっと何か理由があるんだろう。俺にだって未知の未来を信じてみたいという気持ちはまだ残っているからな。もし俺に連絡を取りたい時はこの時空間座標に来てくれ。二度目以降に来る場合は同じ時間に日を変えて」
そう言って彼は人差し指を俺に向けた。俺はなんとなくそうするのがいいように思い、以前、朝比奈さんがしたように自分の手を差し出した。彼が俺の手の甲を人差し指で触れた瞬間に俺の頭の中に時空間座標が飛び込んできた。
彼は笑みを浮かべながら言った。
「やはりダメか」
何のことだ?
「君はやはり何も知らないんだな。そして君が言っていたことがおそらく全て真実だということをこれで確信した」
「どういうことです?」

「俺は敵対組織も含めた全能力者の中でも最高位のコードを持っている。禁則の制限というのは実に簡単に設定出来るものでね。今のやりとりの中で俺は禁則制限を設定する命令コードを君の脳内に送ったんだ。そしてそれは何の効力も発揮しなかった。君は本当に我々とは全く別の方法でTPDDを手に入れた存在だということが解ったよ」
油断も隙もないな、全く。だが俺はさっきの彼の話を聞いて、少しくらいは禁則に縛られていた方が良いような気にもなっていた。自分が歩く人間核兵器以上の存在なんていうのは、それはそれで困るからな。
「ははっ。だまし討ちのようなことをして済まなかった。だがこれはどうしても確かめておく必要があったことでね。では俺はここで失礼するよ。また会える日を楽しみにしている」
そう言って彼は元いたビルの方に去っていった。

その後も引き続き、怪我をさせた男性の系譜を引き続き調べたが、朝比奈さんに関係する人物は現れなかった。
ひとつ手がかりを得てひとつ手がかりを失った。
あの未来人組織の男性の口ぶりでは、ハルヒによる時空振動の調査が近く開始されることになるようだ。
ならば朝比奈さんもおそらく彼と同じ年代にいるはずだった。
俺は賭けに出ることにした。失敗すれば俺は数ヶ月間を無駄にすることになる。だが他に手がかりになりそうなことはなかった。
あの未来人の男性は言った。能力者のルーツは俺の住む地域にあると。
そして、朝比奈さんと俺の妹の間には何らかの関係があるはずだ。

俺は、妹の系譜が鍵を握っているかもしれないと考え、再び調査を開始した。
まさか自分の実家を張り込みすることになるとは夢にも思わなかった。実に不思議な気分だ。
そこには、以前見たのと同じように、ハルヒと結婚する歴史には至らず、ようやく就職先が決まったのか毎日不満げな表情で家を出る俺の姿があった。繰り返して言うが、俺はこんな未来には全く興味はない。
そして妹は朝比奈さんチックな雰囲気をそのまま残して成長していった。
妹は二十四歳のとき、柔和で見るからに面倒見のよさそうな男性と結婚した。兄の俺から見てもベストマッチングだと思える。

そしてその二年後、妹は俺の姪となる女の子を産んだ。
そこから男性の時と同じ方法で系譜を追っていった。
おそらく朝比奈さんが現れるとしたら、それは七代目から九代目あたりになるだろう。だがそこに辿り着くためにはやはり丹念に二代目からひとつずつ代を追っていくしかない。
機関の運営の方は既に俺がいなくてもほぼ問題ない状態になっており、俺はこちらの調査に没頭した。
そして、やはり数ヶ月の歳月を費やし、二枚目の家系図が畳一枚分になろうかという頃、俺はようやく朝比奈さんらしき人物を発見したのだった。
妹の九代目の子孫にあたるその少女が朝比奈さんではないかと気づいたのは、彼女が五歳になる頃だった。名前も朝比奈みくるではなかった。そもそもそれが本名だとは思っちゃいなかったが。
その彼女は、幼かった頃の俺の妹にとてもよく似ていたのだ。
俺は彼女を重点的に張り込むことにした。彼女が朝比奈さんだという確証が欲しい。
家の外からでしかうかがい知ることは出来なかったが、とても幸福そうな家庭だった。生活は決して裕福とは言えなかったが、両親も彼女も笑顔が絶えなかった。
だが、しばらく張り込みを続けた俺は、彼女の過酷な運命を知ることとなった。突然の不幸が彼女の家庭を襲った。
彼女が六歳のとき父親が事故で他界し、後を追うようにしてその数ヵ月後に母親が病死したのだ。
身寄りがなかった彼女は――彼女の両親は駆け落ち同様の状態で結婚し彼女を生んでいた。
身寄りがないのは系譜を調査していた俺が一番よく知っている――孤児院に入った。
彼女にとって孤児院での生活は辛いものだった。気の弱い彼女は新しい生活にあまりなじめなかった。
何よりも両親の死のショックがずっと残っていた。塞ぎがちで、独り隠れて泣いている姿をよく見かけた。
俺は孤児院を十日おきに三ヶ月ほど張っていた。突然彼女の姿が見えなくなった。どこかに引き取られたのだろうか。だがそう簡単に引き取り手が見つかるようには思えなかった。
張り込む日と時間を変え、彼女がいなくなった日を探し続ける。
放射冷却のために大気が冷え込んでいた冬のある日。見つけた。真夜中に一人孤児院を抜け出す少女。俺は後を追った。

彼女は部屋着のままで、力なく足元を見つめながらゆっくりと歩を進めていた。明らかに様子がおかしい。
しばらく歩いた彼女が着いた先は、孤児院近くの川べりだった。視線を川の流れに落としたまま動かない。
嫌な予感がした。こういうのはよく当たるんだ。
そして俺の予感どおり、彼女は一歩ずつ、ゆっくりと川に向かって歩きだした。
「なんてことしやがる!」
俺は叫びながら、全速力で彼女に駆け寄った。俺に気づいた彼女が急ぎ足になる。どんどん川に入っていく。足をもつれさせ、転んだ少女が川の流れに飲まれた。
一心不乱に彼女を追う。意外に水流が速かった。このまま川に入っては間に合わない。俺はしばらく岸を下流に向かって走り、彼女を待ち構えるようにして川に入った。
水深も案外深かった。腰のあたりまで水に浸かったところで、彼女に手を伸ばす。かろうじて手が届いた。意識を失っていた少女を川から引っ張り上げ、岸まで運んだ。
どうやら水は飲んでいない。呼吸も脈もあった。ショックで気を失っただけのようだ。しかしこのままでは肺炎にもなりかねない。急いで少女の上着を脱がせ、体を拭き、俺の上着で包んだ。
そして俺はそれを発見した。
やっと見つけた。この少女が間違いなく朝比奈さんだ。

少女の左胸にそれが確かにあった。俺が以前見たものよりも小さい、微かな星形のホクロが。

一体誰がこんな運命を仕組んだというのか。
もし成長した妹が朝比奈さんに似ていなくて、そしてこの朝比奈さんが幼い頃の妹に似ていなければ、俺はこの朝比奈さんを救うことは絶対に出来なかった。

しばらくして意識を取り戻した幼い朝比奈さんは、泣きじゃくりながら俺に訴えた。
「わたし……お父さんとお母さんのところに……行きたかったの……」
今まで見た朝比奈さんの涙の中でも最も悲痛なものだった。

「あなたは誰? わたし……お父さんとお母さんのそばに行くことも……できないの?」
掛ける言葉が見つからなかった。いつまでも泣き続ける朝比奈さんを俺は力一杯抱きしめた。そうするのが一番いいと思ったから。
俺の胸の中で肩を震わせる朝比奈さんに、俺はやっとの思いでこう告げた。
「君は今ここで死ぬべきじゃない。君はいずれきっと幸せになる。だからがんばって生きてくれ」
泣き疲れたのか、朝比奈さんはいつの間にか眠っていた。
俺は彼女を孤児院まで運び、玄関の前に座らせた。濡れていない俺の衣服で彼女を丁寧に包んだあと、孤児院の呼び出しベルを鳴らし、明かりが点いたのを確認して時間移動した。
これも俺の知ることのなかった既定事項なんだろうか。もしそうでないのなら、俺はまたひとつ歴史を変えてしまったことになる。
だが、誰かが俺の行動を非難するというのならば、俺はそれを真っ向から受けて立ってやる。人一人助けられない規定事項など糞食らえだ。
朝比奈さんの人生がこんな悲しい結末を迎えるような未来が存在してたまるものか。それを変えることに何をためらう必要があるというのか。

俺は未来人組織の彼が指定した時空間座標に飛んだ。朝比奈さんを助けた日からおよそ二年後の未来だ。
「前に言っていた女性がようやく見つかりました」
俺は朝比奈さんのことを伝えた。身寄りがなく孤児院にいること。すぐにでも能力者として彼女を引き取り、迎えてやってくれないかと。
「もしその女性が本当に能力者の資質を持っているのであれば、それはこちらとしても誠にありがたいことだ。今の状況では俺たちには一人でも多くの能力者が必要だからな。それにいずれ君たちの時代に行くことになると言うのならばなおさらだろう」
「それを聞いて安心しました。彼女は少し粗忽なところもありますが、努力家なのは俺が保障します。そしていずれは俺たちの時代にはなくてはならない人物になります」
「ああ、まかせてくれ。これが歴史の必然ということならば、俺が協力しないわけにはいかないからな」
「どうか彼女をよろしくお願いします」
朝比奈さん、どうかがんばって生きてください。この人があなたを向かえに行く日まで。

これで何度目になるだろうか。俺は高校一年の頃の時代に飛び、機関作成の北高名簿を調べた。
二年の朝比奈さんがいたクラス。
果たして、朝比奈みくるの名が登場していた。それはひと目で解る。何しろ目立つ名前だった。
長かった。これでようやく未来人関係の既定事項が全て満たされたはずだ。
機関の中では、朝比奈みくるが存在することは既に当然の事実ととなっていた。歴史は見事に上書きされている。
つまり、それまでいた未来人の存在は既に皆の記憶からばっさりと消去され、機関の全ての資料は未来人朝比奈みくるの名前が取って代わっていた。
『無矛盾な公理的集合論は自己そのものの無矛盾性を証明することができない』
そうさ。それがキングであろうがクイーンであろうが、駒を隠したり入れ替えたりした事実を誰にも悟られない限り、そこには何の矛盾もないのだ。
俺は森さんに、それとなく朝比奈さんのことを聞いてみた。
「我々を撹乱させるために他勢力から送り込まれたエージェントだという推測もありましたが、どうやら正真正銘の未来人のようです」
のっけから不穏な物言いである。
「我々が存在を確認した時点で、彼女は既に一般人からも疑念を抱かれるほど未来人としては迂闊な言動をしていたようです。しかも本人にはどうやらその自覚もないらしいのですが。正直なところ、彼女を我々の時代に送り込んだ未来人の意図が測りかねます」
俺はそれを聞いて確信した。散々な言われようだが、あの朝比奈さんをこれほど的確に表現した言葉もないだろう。つまり、ようやく俺の知る朝比奈さんがこの時代にやってきたということだ。
そして、彼女がこの時代に来た原因は、俺が未来人組織のあの男性に朝比奈さんの存在を伝えたからに違いなかった。

しかしながら、未だに機関の資料に長門有希の名は現れていなかった。
朝倉も喜緑さんもいるっていうのに、なぜ長門は北高に来ない?
まだ足りないことがあるのか?
高校生の俺が長門に会っていないことが原因なのだろうか?
だが俺の経験では、あの七夕の日に朝比奈さんとともに長門のマンションに行ったときには、既に長門は北高の制服を着て三年間の待機モードに入っていた。
俺が長門に会うまでもなく、長門が北高に入学してもおかしくはない。
だとしたら、長門が北高に来ないのは、ハルヒの一度目の情報爆発から七夕の間にあるはずの何かが欠けているということだ。
しかし俺はその間に長門に起こった何かを全く知らない。長門は自分の過去を語るなんてことを今まで一度もしたことがなかったからな。
いや、待てよ。
それは違う。
長門は一度だけ、その見えざる内面を俺たちの前に提示したことがあったじゃないか。
決して長門の口からは語られることのなかった、いや語れなかったのかもしれないその心情を、難解な暗喩に満ちた活字に換えて。
そして今、俺の手元にはそれがあった。次元を超えて俺の足元に現れたあの文芸部機関紙が。

俺は書棚からそれを取り出し、あらためて読み返してみた。
高校一年の頃はそれが何を意味するのかはおぼろげにしか解らなかった。だが今ならそのときよりも少しは理解出来る。
無題1、2、3の三部作として書かれた長門の創作小説。これは一部目が過去の長門について書かれていて、二部目が当時の長門、三部目が未来の長門のことなんだ。未来とはつまり二度目の閉鎖空間での出来事を表している。
一部目と三部目に書かれていた幽霊少女とオバケ少女。それは当時の俺の推測どおり、やはり朝比奈さんのことだったのではないか。
つまり朝比奈さんはあの文芸部室での出会いよりも以前に、長門に出会っていたのだ。
そしてそれが長門をハルヒの元へと向かわせるきっかけになったということなのか。

ならば、それは一体いつだ?
長門の原稿にはこう書かれている。
――空から白いものが落ちてきた。たくさんの、小さな、不安定な、水の結晶。これを私の名前としよう――
長門は初めて見る雪に心を動かされ、それを自分の名前としたのだ。
俺の記憶によれば、その年はハルヒの情報爆発の日以来雪は降っていない。
ハルヒの情報爆発の日以前には、例え情報統合思念体であろうと遡ることは出来ない。
ならばあの日情報爆発が起こってから雪が降り止むまでの間のどこかで、長門と朝比奈さんは出会ったに違いない。
では、それはどこだ?
宇宙人と未来人の出会いに相応しい場所。何の確証もないが、俺にはそこしか思い当たる場所はなかった。
長門が住んでいたマンションの近く。駅前のあの公園。
俺は自分の勘に従って、すぐさまその日のその場所に飛んだ。
ハルヒによる一度目の情報爆発の少し前。午後十一時。
二年前の俺は、この五時間ほど前にハルヒとこの公園で奇跡的に出会い、失われた記憶を取り戻した。
この時代に生きる小学生の俺は、三年後に前代未聞にして空前絶後の暴走女と出会い、その七年後にそいつと結婚することになるなど夢にも思わず、今頃別の夢でも見ているのかもしれない。
俺は公園のベンチの監視に適した場所を探した。それは奇しくも長門や朝倉が住むことになるマンションの屋上だった。
しばらくして、ハルヒの時空振動がきた。内臓までもが揺さぶられるような不思議な感覚。だが俺にとってはそれが奇妙に心地よく感じられた。
時空振動が収まったそのとき、双眼鏡越しのベンチの前に突如一人の少女が現れた。
俺の予想が当たっていたことが、誠にあっけなく証明された。
そこには、今まで俺が見たこともない姿の長門が立っていた。当然ながら北高の制服ではなく、例年の合宿限定で身につけていた普段着のどれでもなかった。

体の線が透けて見えるような、白い薄地のワンピース。それが外灯に照らされて不思議な輝きを放っていた。背中に羽根さえあれば、それは間違いなく天使に見えるだろう。まだ名前すらない無垢な天使。衣装と一体化したかのような、純白の顔が微かに見える。表情は読み取れない。
俺は呆然として、魂を抜かれたかのようにその姿に魅入られていた。
長門は身じろぎひとつせず、いつまでもそこに立ち尽くしたままだった。一時間経っても、二時間経ってもずっと同じ姿で。
すぐにでも長門の前に現れて声をかけてやりたい、どれだけそう思ったことか。
だがそうすることは出来なかった。それは俺の役目ではなかった。

俺は再び未来人組織の彼に会いに行った。朝比奈さんの居場所を彼に告げ、組織で引き取ってくれないかと申し出た日の翌日へ。
「すいません、わけあってまた来ました」
「ああ。またいずれ来るとは思っていたよ。用件はなんだい」
「昨日話した女性のことなんですが、もし彼女が俺の時代に来ることになったら、最初にある場所に行って欲しんです。いずれ彼女にそう伝えていただけませんか」
「それは君の時代にとって大切なことなんだな」
「それは実のところ俺にも解りません。ですがそれはおそらく必要なことのはずです」
「解った。こちらにも都合はあるから確約はしかねるが、なるべく君の期待に応えられるよう努力してみるよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「それで、いつ、どこの時空に彼女を行かせればいいのかな」
そう言って彼は右手を差し出した。これは、俺に指伝えで情報を遅れということか? なんとなく出来そうな気はするが。
時空間座標を念じながら人差し指で触れてみた。
「おいおい、座標データだけでいいんだ。女の子の映像なんていらないぞ。それにしてもずいぶんと可憐な少女だな」
なかなか難しいもんだな。とりあえず座標は伝わったようだったが。
「しかし恐れ入ったな。普通これほど大量のデータを一度に送るなんて、相当訓練を積まないと出来ないことなんだがな」

声を上げて男性は笑った。
「まあ回数を重ねればいずれ慣れるさ。ああそれと、昨日の件だが組織の方には既に話は通しておいた。近いうちに彼女に迎えが行くはずだから安心してくれ」
そこまで言って男性は思いついたように、
「それとも、もう既に君の過去には影響があったのかな?」
「ええ、実はそのとおりです。なんとお礼を言っていいか」
「いや、まだ俺は組織に話をしただけだからな。まあ未来の俺に対する礼として受け取っておくことにするよ」
そう言って愉快そうに顔を綻ばせた。
これがTPDDを持つ者同士特有の会話なんだろうな。俺にはいつまでたっても馴染めそうにはないが。

あの公園で朝比奈さんと長門の間にどういういきさつがあったかは解らない。それは二人だけが知っていればいいことだ。
その結果、長門はようやく北高に現れた。これでSOS団設立時のメンバーが揃ったことになる。
そして高校一年の五月、ゴールデンウィークが明けた翌週。ついに念願のSOS団結成がなされた。

ハルヒを筆頭に、長門と朝比奈さん、そして過去の俺がSOS団に入ったのを確認した俺は、北高への転入指令を下すために高校一年になったばかりの古泉に会った。
「久しぶりだな」
「ご無沙汰しております。最近は本部の方でもお目にかかれませんが」
「ああ、色々と忙しくてな」
これは半分事実で半分嘘だ。俺は確かにここしばらく朝比奈さんの捜索に全力を注いでいたが、古泉と会うのはせいぜい数ヶ月ぶりのことだ。だが古泉からすれば、俺と会うのは二年ぶりくらいにはなる。
俺は話を切り出した。

「涼宮ハルヒに宇宙人と未来人が接触しているのはお前も既に知っていると思うが、是非お前にも北高に潜入して欲しい」
「それは興味深い話ですね。随分と急な話のようにも思えますが」
この頃には既に古泉はすっかり俺の知る古泉になっていた。
「ですが、どうして僕なんです? 北高には既に多くのエージェントが潜入していて、涼宮ハルヒとその周辺の調査も進んでいるはずですが」
「お前が機関の中で最も容易に涼宮ハルヒに近づける能力者だからだ。何しろ同級生だからな」
「なるほど。涼宮さんの内面をより理解することの出来る僕が直接彼女を観察するというのは確かに有効な手段かもしれませんね」
「だがこれは表向きの理由だ。俺はそれ以外の理由でお前が適任だと判断した」
「それはどういうことですか?」
「残念だが詳しい理由は話せない。だがこの任務はお前以外にやれる人物はいない。そしてその理由はいずれお前にも解る」
古泉はこの言葉の意味を転入した日の一限終了直後に知ることになる。いきなりハルヒが古泉のクラスに押しかけるわけだからな。さぞかし驚くことだろう。
「これだけは言っておく。これは機関にとって最も重要な任務だ。言い換えれば機関はこのために存在していると言ってもいい」
「なるほど」
そう言ってしばらく古泉は考える素振りを見せ、
「一つ聞かせてください」
「なんだ?」
「僕はあなたに他のお偉方とは違う何かをずっと感じていました。今まで僕なりにその理由を考えていたのですが、今日それが解った気がします」
古泉のことだ。さすがにここまで言えば俺の秘密には勘付くだろうな。
「あなたはこれから先に起こる未来を知っているのですね」
「ああ、その通りだ」
予想通りの問いかけに、俺は正直に答えた。いずれはこれから北高で出会う過去の俺とこの俺が同一人物だということにも気づくだろう。

「そういうことであれば、あなたが北高に行けと言うのなら、それは多分間違いのないことなんでしょう」
古泉は楽しげな笑みを浮かべた。
「ならばもう一つ聞いてもいいですか」
「俺が答えられることだったらな」
「涼宮ハルヒに接触し、彼女の精神面の安定に寄与している男子生徒のことです。彼は機関の調査では紛れもない一般人だとのことですが、あなたはそれについてどう思いますか」
よりによって、俺のことか。
「そいつは俺にも解らん。俺が知っているのは涼宮ハルヒが何らかの理由でそいつを選んだらしい、ということぐらいだ。もしかしたら隠された能力があるのかもしれんが」
お願いだから、実は俺が異世界人だったなどという、いまさらな展開だけは勘弁願いたい。
「その彼も実に興味深いですね。解りました。この件、是非僕にやらせてください」
すまんが過去の俺をよろしく頼むぞ古泉。俺には必要以上に興味は持ってくれなくてもいいんだがな。

俺は機関の報告書で、古泉の転校によってSOS団が全員集まったことを確認した。このまま行けばおそらく既定事項は全て満たされるはずだ。
後はその確認と歴史の微調整、つまり俺が高校生の俺の行動を肩代わりした歴史を本来の歴史に上書きすれば、ようやく俺はもう一度ハルヒ復活のチャンスを得られるのだ。
そして、もう一度卒業式の長門に会い、作戦を練り直し、第二の情報爆発のあの日に向えばいい。
あの老人を打ち破ることが出来るのかどうかは解らないが、朝比奈さんの言う未来を信じるならば、きっと何か策はあるはずだ。
これでようやく一段落ついたと感じていた。老人によって歴史が改変されてからおよそ二年を費やした。その努力がようやく結実しようとしている。
俺はさらに四日後に飛び、古泉が過去の俺に正体を明かしたことを確認した。間違いなく俺の知る歴史どおりに物事は進んでいる。
機関の報告書を読みながら、俺はこの頃に起こった出来事を振り返っていた。
高校生の俺は今頃、長門による叡智に満ちた宇宙規模的電波話に呆れ、朝比奈さんによる悲哀に満ちた超時空的告白に混乱し、古泉による妄想に満ちた神話的物語に辟易しているはずだ。たった数日間で、俺がそれまで把握していた世界の枠組みは、その姿を大きく変容させたのだった。
そして俺はさらにこの先の数日間で、朝倉に襲われ、朝比奈さん(大)に出会い、ハルヒに心情を告げられ、古泉に招待された閉鎖空間で神人を目の当たりにし、ハルヒによる新世界に閉じ込められることになる。
これはなかなかのハードスケジュールだぞ。がんばってくれよ、高校生の俺。
俺はふと思い出した。そう言えば今日この日の放課後、ハルヒは部室に姿を現さず、反省会と称して一人で市内探索をやってるんだっけか。
俺はなんとなくそんなハルヒを見てみたい気分になった。俺の知らないところでハルヒはどんな風に過ごしていたんだろうと。
今思えば、SOS団がようやく誕生したことで、俺はすっかり安心しきっていた。
そして、そこに油断があった。



第 六 章


北口駅前の公園。SOS団の大抵の活動はここから開始された、団御用達の集合場所。
市内不思議探索パトロールは結局通算で何度やったんだっけか。
結局それで不思議なものは何一つとして発見出来なかった。だが俺はそんな日々をとおして、かけがえのない別のものを見つけた。
確かハルヒは前日に三人で廻ったルートを、あらためて一人で探索したと言っていた。
常にハルヒと別チームだった俺は、午前に朝比奈さんとで西側、午後に長門とで南側を探索した。まあどちらも何かを探そうなどという気はさらさらなかったのだが。
つまりハルヒはその逆で東側か北側のどちらかに向かっているはずだ。
俺はハルヒの姿を見つけるべく、北方面に向けて当てもなく歩きはじめた。
平日だというのに人通りが多い。相変わらず暇そうな若者たちがたむろしている。
歩いてすぐ、いつもの喫茶店が目に入る。ここのコーヒーも随分とご無沙汰になるな。
テーブルを囲みながら随分と色んな話をした。市内探索の方針やら、夏休みの活動計画やら、映画製作による悪影響の対策会議やら。まあ単なる無駄話が一番多かったがな。
様々な思い出がよみがえっていた。ここのところ、俺には過去を振り返るような余裕はほとんどなかった。
朝比奈さんに未来人の告白を受けた桜並木、長門と一緒に行った図書館、古泉との純高校生的徘徊、不服そうなハルヒのアヒル口……
不意に誰かの指先が俺の肩を叩く。
鶴屋さんか機関の誰かとでも出くわしたのだろうか。
俺はなんの警戒心もなく振り向いた。そして俺は全く予想していなかった人物を前にし、たちどころに硬直した。

そいつは実に晴れやかで、無邪気で、
「お買い物? それとも」
そして二度と思い出したくもないあのときの笑顔でこう言った。
「人探し?」
朝倉涼子。
一度ならず二度までも俺を殺害しようとした、暴走宇宙人端末。
俺はTFEI端末に近づかれることを何よりも避けなければならなかった。
過去の長門の行動から、俺は下校後のハルヒにまで監視がついていることはないだろうと勝手に推測していた。自分の読みの甘さを激しく後悔した。
朝倉は笑顔のまま、俺の返答を待っている。
こいつは過去の俺と今の俺を混同したのだろうか。そんな楽観的観測をすぐさま俺は打ち消した。サングラスと髭面の俺を呼び止めたのだ。例えそれがなくとも、こいつらがそんな単純なミスを犯すはずがない。
俺は朝倉の問いかけを無視し、朝倉とは逆方向に走った。とにかくこいつから離れないとまずい。
人ごみを避けながら走る。心拍数が急上昇する。走りづらい。
一度目の襲撃は俺自身にもわけが解らないままに過ぎ去った。二度目のそれは考える余裕が全くないほどの不意打ちだった。だからそれらの事態に対して俺は取り乱す暇すら与えられなかったと言える。
だが今回は違う。こいつが俺に対してこれから何をしようとしているのか、俺ははっきりと理解していた。そして今の俺には以前のような強力な助っ人は存在しない。
俺はさっきの笑顔に、明らかに狼狽し、恐怖していた。
呼吸が乱れる。足がもつれる。
後ろを振り返る。朝倉は元いた位置に立ちつくし、不思議そうな顔でこちらを見つめていた。俺は前に向きなおり、なおも走り続ける。
次の路地を曲がって、すぐに時間移動だ。同じ時空間にいるのはヤバい。
あと数秒走れば大丈夫だ。このまま逃げ切れるか?
その刹那、俺の目の前に突然朝倉が出現した。空間移動だと?
この野郎、公衆の面前でなんて無茶しやがる!

急ブレーキをかけた俺に、
「逃げることないのにな」
と笑顔に戻った朝倉は、無茶をさらにエスカレートさせた。
朝倉の右手が虚空をつかむ動作をし、一呼吸でそれが振り下ろされたときには既に、奴の掌にアーミーナイフが光っていた。
周囲の目を気にする様子など全くない。おそらくこいつは、コトが終わった後で周辺の人間全員の記憶を改変すればいい、くらいにしか思っちゃいねえ。
一歩、また一歩と朝倉が歩み寄る。周辺から人が離れ、妙に落ち着いた感じで俺たちを眺めている。
映画の撮影か、あるいは大道芸か何かだと思っているんだろうなきっと。女子高生がナイフを構えて怪しげなサングラスの男ににじり寄る姿など、普通に考えてありえない光景だ。
ええい、どうする。俺も衆目に気を配っている余裕などなかった。モタモタしてる暇はない。ひとたび情報制御が開始されれば、この空間だっていつコンクリートに囲まれるか解ったもんじゃない。
朝倉との間合いを測りつつ時空間座標を設定する。どこでもいい。朝倉の存在しない未来へ。
朝倉が両手で固定されたナイフとともに勢いよく飛びこんでくる。俺は咄嗟に後方に飛び跳ねようとする。運悪く野次馬に激突する。まずい、避けられない。
そして体全体が揺らぐ感覚がきた。

間一髪、時間移動が間に合った。俺は、俺が高校三年の頃の北口駅前に飛んでいた。
俺が一番恐れていたことが現実となってしまった。情報統合思念体に俺の存在が知られてしまった。全てではないにせよ、おそらく朝倉は俺の記憶を読んだに違いない。
だとすれば、当然ながら情報統合思念体からの攻撃が予想される。現に朝倉は俺に襲いかかってきた。
今この時空に朝倉は存在していない。朝倉は異空間と化した一年五組の教室で長門に情報連結解除された。だがそれ以降の時空でも無論安心は出来ない。他のTFEI端末が襲ってくる可能性は十分にある。それが長門でないことだけを祈りたい。
情報統合思念体に俺がいる時空間座標を割り出されるのはおそらく時間の問題だろう。時間移動を繰り返せば多少時間は稼げるだろうが、いつまでそんなことが続けられるだろうか。
どうする? 考えろ。考えろ。

未来の長門を頼れないか。いや、俺は既に情報統合思念体にマークされている。今、未来の長門に会うのは奴らに今後の計画を漏らすようなもんだ。危険すぎる。
機関や小泉ならどうだ。だめだ。おそらく朝倉がその気になれば、一人で機関を壊滅させるくらい容易いだろう。
朝比奈さん(小)が役に立ってくれそうにないのは言うに及ばない。
ハルヒ? そんなことをしたら今まで俺が苦労して積み重ねてきた歴史が全て水泡に帰す。考えたくもないな。
つまりは、俺自身がこの状況をなんとかしなくてはならないのだ。
これは既定事項なんだろうか? 朝比奈さんはなんと言った?
「私たち未来人はこれからのためのヒントを今まで色々と与えました。そのことをよく思い出して」
焦燥する。頭が回転しない。思い出せない。
あれこれと考えていた俺の背後から、呼びかける声がした。今さっきまで聞いていた声で。
「あなた、時間移動が出来るの? 驚きね」
振り返る。そこには、この時代に現れるはずのない朝倉が立っていた。
こっちの方が驚きだぜ。一体どうなってやがる?
こいつはこの時間平面ではとっくに消滅しているはずだ。同期出来るわけがない。
だったら何故こいつはここに来れる? 長門と違いTPDDを使えるとでも言うのか?
「何のこと? あなたの考えていること、よく解らないな」
こいつ、やはり俺の思考を読んでやがる。考えるのは後だ。とにかく逃げなければ。
「どうぞご自由に。わたしはすぐに追いつくわ」
朝倉の笑顔には余裕の色が現れていて、それが俺の恐怖をさらに煽り立てる。
出来るだけ過去の座標を設定する。時間移動が開始された。体が揺れる。

過去に到着した俺は、電波時計の時刻を合わせた。エラーが表示される。なるほど、まだ電波時計が実用化されていない時代まで遡ってしまったようだ。
俺は長らくの朝比奈さん捜索活動で時間移動を繰り返すことにより、一度に五十年近くの時間を移動可能になっていた。
そうか。ならばここはハルヒの時間断層よりも過去で、奴は追いかけて来れないはずだ。これでじっくりと考える時間が取れる。

まずは朝倉に関する情報を収集する必要がある。
なぜ朝倉は未来にやって来れた?
考えられるのは、この歴史では朝倉が消滅する事件がまだ起こってないか、朝倉がTPDDを使えるか、何らかの理由で朝倉が復活したかのいずれかだ。
あの事件が起こったのは正確にはいつのことだ?
そうだ。ハルヒが一人で市内を探索した翌日、つまりさっき俺が朝倉に肩を叩かれた日の翌日だ。
俺は不思議なことが起こらないことで弱気になっているハルヒの姿を横目に見ながら、下駄箱に入っていたノートの切れ端に対して色々と考えをめぐらせていたのだ。
ならばその日の前後数日間の機関の資料をあらためて確認すればいい。
仮に、朝倉が消滅する歴史が生まれていないのだとしよう。ならば、その理由とはなんだ?
俺は何かを間違えてしまったのか?
あるいは、まだ足りない何かがあるのか?
俺は今までの行動をあらためて振り返ってみた。
俺は記憶を失い、ハルヒに出会って記憶を取り戻し、ハルヒの情報爆発を引き起こし、機関を作った。
三年前の七夕でハルヒを手伝った。それでハルヒは北高に行くことになった。
眼鏡少年を交通事故から救い、亀を与え、記憶媒体とハルヒの論文を送った。これで未来人組織は生み出された。
未来人の男性の先祖にあたる男性を病院送りにし、未来人組織の男性に会い、朝比奈さんを救った。朝比奈さんが北高に行くことになった。
長門の小説からヒントを得て、朝比奈さんと長門を引き合わせた。長門が北高に行くことになった。
そして、古泉を北高に送り込み、SOS団は結成された。
このうち、七夕、少年、先祖、記憶媒体、ハルヒの論文は、本来高校生の俺がするべきことをこの俺が肩代わりしている。
だが七夕を除いては全て朝倉が消滅した後の話だ。七夕にしても、あの出来事は長門とは関係しそうだが、朝倉との関連性はおそらくないだろう。

では、まだ実行されていない重要な既定事項はとは何だ?
俺が高校生だった頃の行動を振り返ってみた。
俺は長門の世界改変事件に巻き込まれ、それを修正するために再度七夕に飛んだ。
そしてあの十二月十八日へ、二人の俺と二人の朝比奈さんと長門が飛び、世界を再改変した。
鶴屋さん所有の山で岩を動かして、ハルヒにオーパーツを発見されることを防ぎ、元々岩があったところから鶴屋さんはオーパーツを掘り当てた。
後は朝比奈さんの誘拐劇くらいしか思い当たらない。
これらは以前俺が肩代わりしたことを高校生の俺にやらせれば、後は自動的に未来人が高校生の俺を使って実行してくれるはずだ。
そして例のオーパーツと朝比奈さんの誘拐は、朝倉の消滅以降の出来事である。
やはり怪しいのは七夕に関係する出来事のようだ。
これは早急に正しい歴史に修正する必要がありそうだな。
歴史の修正にはそれほど時間はかかるまい。少年にSTC理論を与えに行ったときと同じく、俺が過去の俺に事情を説明するだけでいい。おそらく二分あれば問題ない。
さっき朝倉が再び俺の目の前に現れるのに、三分はかかっていた。それならば間に合うはずだ。
待てよ?
ここで一つの疑問に行き当たった。
朝倉がもしTPDDを持っているのだとしたら、俺が存在する時空間座標を割り出すのにたとえ時間が掛かったとしても、それさえ解ればその時間のその場所に移動すればタイムラグは起こりえない。俺から見れば、俺が時間移動をした瞬間に朝倉が同時にその場所に現れるはずだ。
なるほど、そう言うことか。つまり逆に考えれば、朝倉はTPDDを持っておらず、時間移動はやはり同期によっておこなわれていることになる。
あの駅前の歩道で見せた瞬間移動にしても、それはTPDDを用いた空間移動ではなく、単に高速で移動していただけということになる。
ならば常に朝倉との距離を考えることが重要になる。

あのとき同期先の朝倉がどこにいたかは解らないが、俺が飛んだ先は襲われたのと同じ北口駅前あたりだ。
仮に光陽園のマンションに朝倉がいたのだとして、そこから駅前まではだいたい三キロくらいの距離だ。移動速度は時速にして六十キロくらいになる。最高速度はおそらくもっと速いはずだが、障害物を避けながらの移動になるだろうから、それくらい時間がかかるのだろう。
ならば、もし朝倉に襲われた場合は時間移動をするよりも、なるべく遠くに空間移動したほうが安全といえる。
これならなんとかなりそうだ。

俺はまず朝倉に発見された日の三日後の、北口駅前にある機関本部に飛び、過去三日分の報告書を入手してすぐさま時間断層の先に戻った。所要時間二分だ。朝倉は来なかった。
やはり予想は当たっていた。機関の報告書には、どの日付を見ても「TFEI端末 朝倉涼子 特に変化なし」という一文が記載されていた。
まだ朝倉が消滅するという歴史が生まれていない。
どうやら北口駅前での事件は朝倉が情報操作で揉み消したようだな。それは俺としてもありがたいことだったが。
俺は、二年ほど前の俺が、高校生の俺の行動を肩代わりして実現した規定事項の修正を開始した。
一度目の七夕。これは二年前の俺がハルヒを手伝うことを、この俺が中止させればいい。
その瞬間に未来が変わり、ハルヒが北高に行かなくなる歴史に塗り替えられる恐れもなくはないが、それはおそらく未来人組織の介入により俺の知る元の歴史に上書きしてくれるだろう。
歴史の歪みを最小限に抑えるのが彼らの役割だと言っていた。ならば彼らがうまくやってくれるに違いない。そして、その結果がおそらく俺が知る既定事項、つまり高校生の俺が朝比奈さんの依頼によりハルヒを手伝うという歴史につながるはずだ。
俺は以前の俺が妹に誘拐まがいの所業をおこなった現場に向かうことにした。
その頃に朝倉が存在するのかどうかは解らないが、光陽園から北高まではおよそ一.五キロ。だがこのルートは障害物が少ない。一分あれば朝倉は到着するだろう。
時間との戦いだ。妹との待ち合わせの正確な時間を思い出す。午後四時だ。あの時俺は待ち合わせ時間丁度にやって来た妹の背後から、気づかれないように意識を失わせた。ならば俺も待ち合わせ時間丁度のその場所に飛べばいい。一分以内でカタをつけてやる。

時間移動の開始。すぐに電波時計の時刻を合わせる。午後四時〇分三秒。想定どおりの時間と場所だった。
目の前には以前の俺がいて、今まさに妹の背後から忍び寄ろうとしていた。
俺は無言で肩を叩く。
体をビクっと揺らすもう一人の俺。
俺はそいつの手を引き、妹から遠ざけたうえで説明を開始した。既に二十秒が経過している。
「見てのとおり俺は未来のお前だ。詳しい理由を話す時間はない。この計画を中止してくれ。でないとこの先、七夕の日にお前と高校生の俺たちがかち合うことになる」
もう一人の俺は呆然とした表情で俺を見ている。無理もない。
時計を見る。三十五秒経過。
「もう時間がない。ここは危険だ。お前もすぐに時間移動しろ。今すぐにだ。俺を信じろ」
四十五秒経過。
もう一人の俺は何かを言いたげだったが、答えている時間はない。
「急げ」
そう言い残し、俺はすぐさま元の時空に飛んだ。
次に俺はその結果を確認するためにあの七夕の日に飛ぶことにした。
ハルヒが通っていた東中は、朝倉たちのマンションからおよそ七百メートル。四十秒足らずで朝倉が来る計算になる。
高校生の俺や二年前の俺がハルヒの落書きの手伝いをしたのは、午後九時十五分から九時四十五分の間くらいだ。
ならば、九時三十分あたりで東中のグラウンドの様子を窺えばいい。
いや、それはダメだ。ハルヒや過去の俺に近づくわけにはいかない。暗がりの中、遠くからどちらの俺がハルヒを手伝っているのかを判断するのも容易ではないだろう。
ならば、体育用具倉庫の裏の壁にもたれかかって寝ているのが朝比奈さんなのか、妹なのか、あるいは誰もいないのか、それを確認すればいい。
寝ているならば至近距離まで近づける。二人が似ているといはいえ、俺が見ればそれは一瞬で判断出来る。
決まった。午後九時三十分。用具倉庫の裏。朝比奈さんや妹が寝ていた場所へ。
体が揺れ、到着した。果たして、ぐっすりと眠りこんでいる女性を発見した。時計を合わせる。午後九時三十分五秒。

目の前の女性に近づき、顔を覗き込む。
間違いなく朝比奈さんだった。未来人組織は俺の思惑どおり、俺の知る正しい歴史で上書きしてくれたのだ。
時計を見る。十六秒経過。長居は無用だ。俺は即座に元の時空へと飛んだ。まるで曲芸飛行のようだな、まったく。
同様にして、事故から少年を救った二年前の俺を止めに行った。
森さんに連絡して少年襲撃計画の中止を伝え、少年を救う直前の俺に会い、前回と同じようなセリフを述べ、計画を中止させた。
後はやはり同じ方法で、男性を病院送りにしようとする俺を制止し、少年に亀を与えようとする俺を制止し、ハルヒの論文と記憶媒体を郵送しようとする俺を制止した。
その度に未来人たちが、敵対組織も含めて、俺の期待通りに俺の知る正しい歴史に上書きしてくれたことを確認した。
俺はこれら全てを三時間ほどでやり遂げた。頭と神経を使いすぎてクラクラしそうだ。これもひとえに朝倉によるプレッシャーのおかげだな。

俺が肩代わりした歴史は全て元の歴史に修正された。
後は、高校生の俺が実行するはずの残りの既定事項が、俺の知る歴史どおりになっているかを確認すればいい。
俺はさらに気合を入れ、それらを確かめることにした。
まず俺は、俺と朝比奈さんが時間凍結されていることの確認に向かった。
高校一年の春頃に飛び、長門や朝倉が学校に行っている隙を狙って長門の部屋に侵入した。
俺が朝比奈さん(大)とともに長門のマンション行ったとき、長門は和室の襖は開かないと言っていた。部屋ごと時間を凍結しているからだと。
ならば今俺の目の前にあるこの襖も開かないはずだ。襖に力を込める。
そして襖は実にあっさりと開かれた。目の前にあるはずの布団がなく、そこに居るはずの俺と朝比奈さんもおらず、ただ畳だけの空間が広がっていた。
早速つまずいた。軽い挫折感。なぜだ?

俺は時空断層の先に戻り、理由を考えた。
あのとき俺たちが時間凍結されたのは、朝比奈さん(小)が何らかの理由でTPDDを失ったからだ。
つまりこの歴史では朝比奈さん(小)のTPDDは失われておらず、そのまま元の時空へと戻ったらしい。
あのとき朝比奈さん(小)からそれを奪ったのは朝比奈さん(大)だ。当時は推測でしかなかったが、今なら確信を持って言える。
ならば、どうやら俺がそれをするしかなさそうだった。
TPDDを奪う。もちろん俺は今まで一度もやったことはないが、妹の意識を失わせたのや、男性に時空間座標を伝えたのと同じ原理で出来るはずだ。
いや、出来てもらわないと困る。
またしても七夕のあの日に飛ぶ。体育用具倉庫の裏。さっきより時間を三十分ずらして。
俺に与えられた時間は四十秒弱しかない。すぐさま朝比奈さんの首筋に指を当て、脳内にあるTPDDの位置を探る。
俺は彼女の脳内の様子が、自分の指先を通じて俺の脳内に伝わってくるのを確かに感じていた。
なぜこんなことが出来るのか、それは俺にだって解らない。理解しているのではない。感じているのだ。
見つけた。TPDDの起動スイッチがある。妹の意識を失わせたのと同じ要領でそのスイッチをオフにする。
時計を見る。三十三秒。
直ちに元の時空に座標を設定し、体が揺さぶられた。
続けざまに、再び長門の部屋に向かう。もちろん日を変えて。
和室の前に立ち、襖の取っ手に手を掛ける。
動かない。さらに力を込める。微動だにしない。
俺は襖の向こう側に時間を凍結された高校生の俺と朝比奈さんが居ることを確信し、元の時空に戻った。

次に、またしても同じ七夕の日の午後九時に飛び、公園を出た路地で朝比奈さん(大)と過去の俺が出会うことを確認する。これからこの二人は二度目の長門宅訪問を果たすのだ。
さらに十二月十八日のあの夜に飛び、暴走した長門による世界改変を修正するために集結した二人の俺と二人の朝比奈さん、そして長門の姿を確認した。
これは結構危険な賭けだった。暴走した長門による改変が終わり、未来の長門による再改変が始まるわずかな間を狙って時間移動しなければならなかった。そうでないと、どちらかの改変に巻き込まれてしまう。『午前四時十八分です。後五分くらいで、世界は変化します』あの時の朝比奈さんの言葉を覚えていなかったら完全にアウトだった。自らの記憶力に感謝する他ない。
二月九日夕方、雨天の鶴屋山に行き、過去の俺と朝比奈さん(みちる)が動かしたはずの岩を確認した。
おかしい。岩が移動していない。
あれを動かしたのは確か雨が降る直前だった。ならば既に岩の位置が変わっていなければならないはずだ。
さっきの襖といい、歴史はまだ微妙にズレているみたいだった。
考えている暇はなく、俺は自分で岩を動かした。相変わらず重い。元の位置から西に三メートル。所要時間四十五秒。
あのとき俺と朝比奈さんとでやったようなカモフラージュをしている暇はなかった。この雨が地肌をならしてくれることを祈って、急いで次の移動先に飛ぶ。
その四日後、誘拐された朝比奈さん(みちる)が助け出されたことを確認した。正確な時間は覚えていなかったが、大体の目星をつけ向かった先では、まさに機関のメンバーと敵対組織が対峙している真っ只中だった。
これらの確認を、計画、実行含めておよそ二時間かけて全てこなした。さすがにもうフラフラだ。

予想外の事態が二つあったものの、これで俺の知る既定事項は全ておこなわれたことになる。
その二つに関しては、またいずれ元の正しい歴史に上書きする必要があるだろう。それを一体いつやればいいのかは俺には全く見当がつかないのだが。
こんなことなら朝倉に見つかる前に先に片付けておくべきだった。あの時の油断を俺は心底後悔した。

だが、まだ最後の確認が残っている。これで朝倉が消滅する歴史が生まれていなかったら、これはもう笑うしかない。
俺は数時間前の俺が機関の報告書を取りに行った日の翌日に移動し、機関の過去四日分の報告書を入手し、時間断層の先に戻った。
祈る気持ちで機関の報告書に目を通した。

そこには無常にも「TFEI端末 朝倉涼子 特に変化なし」という一文が記載されていた。

もう俺には、過去の自分がやり残したことを何も思いつかなかった。やれることは全てやっているはずだ。
ならば、なぜ朝倉は消滅しないんだ。何が足りないっていうんだ。
そうして、俺はふと思いついた。

待てよ……過去の俺がやったことではなく……今の俺がこれからやるべき何かがまだ残されているということか?

俺はしばらくの間あらためて考えてみた。そして俺はようやくそれに思い至った。
そうだ。俺はあのオーパーツが何のためにあるのか、考えもしなかった。
岩を動かすという行為は、ハルヒにオーパーツを発見されないようにするためのものだったのだろうか。
俺は別の仮説を考えた。もしかすると、あれはオーパーツの存在を俺に知らせるためだったんじゃないか?
オーパーツがどういう意味を持つものなのかは解らないが、もしかしたらこの状況を打開する鍵になるのかもしれない。
既に俺には他に手がかりはなかった。ならばあれに賭けるしかない。いつまでも朝倉から逃げ続けるわけにはいかない。
今から鶴屋山に行ってオーパーツを掘り出す余裕はないだろう。
一体あれがどれだけの深さで埋っているのか解らない。掘り出すのに一分で済むのか一時間かかるのかさえ解らない。
掘っている最中に朝倉がやってくれば、これはもう最悪の事態だ。

俺は、鶴屋さんがオーパーツを掘り起こした日の翌日、つまり高校一年の二月十五日の鶴屋邸に時間移動した。
この日鶴屋さんは、昼食中の俺を屋上手前の階段に連れ出しオーパーツを掘り出したことを告げ、放課後の部室に朝比奈さんの制服と上履きを持ってやってきた。その後家に真っ直ぐ帰ってくれていればいいが。
鶴屋さんの部屋に赴いた。幸いなことに鶴屋さんはそこにいた。
「久しぶりだな。元気か?」
一応、元気かとは聞いてみたが、この人が元気でなかったところを俺は一度として見たことがない。
「ジョン兄ちゃん! めがっさ久しぶりだねっ!」
鶴屋さんの時間軸では、俺に会うのはおよそ三年ぶりのことだった。俺は機関の設立が終わった後、未来人の男性や朝比奈さんの系譜を追うのに都合がよいという理由で、機関本部の近くに住居を移していた。あの頃は毎日のように現在と未来の間をめまぐるしく移動しており、生活リズムがボロボロの状態だったからな。
久しぶりに会う鶴屋さんは、当然ながら既に俺の記憶に残る鶴屋さんの姿になっていた。そんな鶴屋さんにお兄ちゃんと呼ばれるのは、いささか気恥ずかしいものがある。
いや、そんなことを考えている暇はない。俺は、挨拶もそこそこにオーパーツのことについて訊いた。
「あれっ、どうしてあれのこと知ってんのっ?」
そう言いつつも、鶴屋さんは明らかに含みのある顔つきで笑っていた。
「まぁいいやっ。もうすぐうっとこの研究所の人たちが取りにくる予定だよ。厳重に保管してもらわないとねっ」
「すまん、あれをちょっと見せて欲しいんだが。大至急で」
「いいよっ。ちょっと待ってて」
既に三十五秒が経過している。朝倉のマンションから鶴屋邸までの距離はおよそ一.四キロメートル。直線的に来れるルートはないから、朝倉の野郎が到着するまで一分半程度のはずだ。

鶴屋さんが急いでオーパーツを持ってきてくれた。実物を見るのははじめてだ。手に取ってみると案外重い。
鶴屋さん曰く、チタンとセシウムの合金の、直径約二センチ、長さ十センチ足らずの棒状の物体。
「離れは今使えるか? ちょっと貸して欲しいんだが」
目の前で時間移動するわけにはいかないからな。
「空いてるよっ。一昨日までお客さんが泊まってたけどねっ」
そうか。過去の俺が朝比奈さん(みちる)を預けていたんだった。
いかにも「知ってるよね?」と言いたげに首を傾ける鶴屋さん。この鶴屋さんは既に、下級生でありSOS団員である高校生の俺と、目の前の俺が同一人物だと勘付いてる。
離れまで移動する間に、オーパーツに目を落とす。
写真で見たのと同じように、表面に無数の幾何学模様が描かれている。何か意味のある言語のようなものだろうか。無論俺にそれを読めるはずもないが。
棒の両端には中心から十個ばかりの円が同心円状に刻まれており、その円と円とを繋ぐ直線が無秩序に並んでいた。やはりその意味は解らない。
「すまんがしばらく一人にしてもらえないか。すぐにすむ」
「お客さんの友達にも同じようなこと言われたにょろよっ!」
ああ、確かに朝比奈さんと二人にしてくれと何度かお願いしたなそういえば。あのときと変わらない鶴屋さんの笑顔で思い出した。

離れに入り、引き戸を閉める。
時計を見る。一分二十五秒経っていた。慌てて時間移動を開始する。
時空間座標を設定。体がグラっとする感覚――――
おかしい。
なぜだ? あの感覚が来ない。
「無駄」
背後からの声に背筋が凍りついた。
振り返る。そこには見慣れた姿、見慣れた笑顔で、朝倉涼子が立っていた。

「この部屋に時空間障壁を展開したの。あなたには解除出来ないわ」
まずい。退路を塞がれた。
「随分と振り回してくれたわね。おかげで一日中走り通しだったわよ」
そう言いつつも、朝倉は笑みを絶やさない。
「おまけに異時間同位体もたくさんいたし。あなたを探し出すのに苦労したわ」
さあ、どうする。この部屋から出れば時間移動は可能なのか? だが、出口の方角には朝倉が立ちはだかっている。
「俺に何の用だ?」
時間を稼ぐしかない。このオーパーツに何か秘密があるのだとしたら、それを解き明かすしかこの状況から逃れる方法はない。
「私たちに用があるのはあなたの方じゃないの?」
「お前、俺の記憶をどれだけ読んだんだ?」
俺はオーパーツを後ろ手で持ち、魔法のランプよろしく表面をこすってみた。何も起こらない。
「私たちに対する強くて危険な思念を感じたんだけど。これが怒りという感情なのかな?」
「さあな。お前に感情が解るとも思えないが」
オーパーツを振ってみる。何も起こらない。どうしろって言うんだ。
「あなたはどう思う? 涼宮さんはあたしのことなんかちーっとも相手にしてくれないじゃない? あなたと長門さんには話しかけるのに。長門さんだって涼宮さんとあなたのことばっかり気にかけてさ。あなたもそう。あたしだけ蚊帳の外。わたしが長門さんのバックアップだから相手にしてもらえないのかな?」
何を言っているんだ、こいつは?
「だからね、あなたがいなくなったら涼宮さんや長門さんがどういう反応を示すのか興味があるの。わたしの方を向いてくれるようになるかなあ?」
「だったら、ハルヒの近くにいる方の俺を狙えばいいだろうが」
事実、俺の知る朝倉は夕暮れの一年五組の教室で俺にナイフを向けた。
「ふーん。やっぱりあなたもそう思う? でもね、それは上の方にいる人が許してくれないの」
その口上は以前にも聞いた。

「だからね、わたしはあっちのあなたじゃなくて、今あなたを殺したい気分なの。これが嫉妬や怒りってものなのかな?」
「知らねえよ」
朝倉はどこまでも無邪気な物言いだ。こいつは既に情報統合思念体など関係なく自分の意思だけで動いてやがる。
「うん、多分そう。わたしはあなたに死んで欲しいんだと思うの」
朝倉は自分勝手に結論を導き出し、
「じゃあ、そろそろ死んで」
朝倉は数時間前と同じ仕草で虚空からナイフを掴み取った。
緊迫のあまり、俺は無意識にオーパーツを握りしめていた。
突然、頭の中に直接メッセージが飛び込んできた。聞き覚えのある声。メッセージの主は朝比奈さんだった。

『あなたはこの装置によって涼宮さん復活の可能性を得ることが出来ます。ですが、それはあなたにとって大きな代償を伴うことになります。あなたはこの装置を起動するか、そうしないかを選択することが出来ます。それによって未来は大きく変わります。この選択にはあなたと涼宮さんの運命だけでなく、地球の運命が懸かっていると言っても過言ではありません。これからの未来は誰にも解りません。ですが、あなたにはそれを選ぶ権利があります。あなたにとって望ましくない未来になるかもしれません。あるいは未来人にとって望ましくない未来になるかもしれません。私たちは未来をあなたの手に委ねることに決めました。あなたがあなた自身で選ぶ未来です』

大きな代償?
俺にとって望ましくない未来?
それは一体何だ?
そんなものはどうでもいい。俺は既に答えを決めている。俺がどんな代償を払おうとも、遠い未来がどうなろうと、そんなことは構いはしない。
ハルヒを救う方法がこれにしか残されていないのであれば、いまさら選択の余地などない。

朝倉が歩を進め、目の前に迫ってきていた。あの教室であれば、まだ多少逃げ場は残されていた。だがここは違う。逃げる場所なんてどこにもなかった。
ここに突然長門が現れて、こいつのナイフを素手で掴んでくれやしないだろうか。そんな身勝手な期待は叶うはずもなく、朝倉が振ったナイフは無常にも俺の左脚を切り裂いた。
激痛が走る。悲鳴を上げる。
立て続けに右脚にナイフが突き刺さる。この野郎、俺をなぶり殺す気か!
「これでもう動けないでしょ? じゃあ、とどめね」
朝倉は変わらない笑みをまといながらナイフを振り上げた。
「死になさい」
なされるがままにメッタ刺しだった。両手、腹、胸。次々にナイフが突き立てられる。血しぶきの向こうに朝倉の笑顔が見える。一片の混じり気もない、純粋な殺意。
意識が遠のいていく。もうどこを刺されているかも解らない。微かに朝倉の声が聞こえてくる。
「生命維持機能停止率九十八.六三%、死亡までの推定時間十五秒……」
薄れゆく意識の中で、俺は朝比奈さんの言葉を思い出していた。『あなたはあなたの信じる行動をとって』
俺はありったけの想いを、右手に握るオーパーツに込めた。

――俺は絶対にハルヒを救ってみせる――

………………
…………
……

誰かが俺の頬を叩いている。
意識を取り戻した。視界がぼんやりとしている。俺は助かったのか?
「お兄ちゃん!」
ようやく目の前のものの輪郭がはっきりとしてきた。俺の脇で誰かが泣いてる。鶴屋さんだ。俺のために鶴屋さんが泣いてくれているのか?
俺は起き上がり、鶴屋さんに事情を聞いた。
「驚いたよ……離れから大きな物音が聞こえて……あれのせいで何か起こったのかと思って……。扉を開けてみたらお兄ちゃんが血まみれで倒れてて……。あたし、てっきり即死だと思ったよ。だって辺り一面血の海じゃない……」
部屋を見回してみる。壁から天井に至るまで、鮮血でまみれていた。
鶴屋さんが、しゃくり上げながら続ける。
「だから、誰かに刺されたんだと思ったよ。服もボロボロだったし……。でもさ、あたしずっと母屋から離れを見てたけど、誰かが出入りするようなことなんてなかったよ。それで、お兄ちゃんに近づいて傷を調べてみたの。血の出てたところ。そしたら傷なんてひとつもないじゃない。それにこの棒が光ってて……これは一体なんなのさっ……」
つまり、このオーパーツが俺を蘇生させ、傷を回復してくれたということなのか?
そして、朝倉がいなくなっているということは、おそらく奴は俺が死んだことを確信しているに違いない。
「驚かせてすまなかった。もう大丈夫だ」
鶴屋さんは涙を流し続けながらも、俺に笑顔を向けてくれた。

その後、俺は鶴屋さんにオーパーツを譲ってくれないかと頼んだ。もちろん詳しい事情は話せなかったが。
鶴屋さんは、俺がこれを必要とするのなら、それは俺が持つべきものだと言い、承諾してくれた。
俺は元の時代に戻りあらためてオーパーツを調べた。だが特に新しい情報は得られなかった。
メッセージも二度と流れてこなかった。だがそれは必要ないことだ。俺の頭の中には既にそのメッセージが一語残らず確かに記憶されているのだから。
結局代償とは何だったのか。それともそれはこれから背負うことになるのだろうか。

翌日から俺は朝倉の調査を開始した。奴の出方が気になる。俺のことを諦めてくれているのか?
そして調査はあっけなく、意外な結末をもって終了した。
朝倉は暴走していた。俺が知るあの日の歴史どおりに。機関の報告書には、
「TFEI端末 朝倉涼子 カナダに転校。詳細不明。不自然な点多数。何者かによる情報操作の可能性あり。至急の調査を要する」
と記されていた。
つまり、昨日の出来事により朝倉の消滅が既定事項になったということなのだろうか?
朝倉は俺を殺したことにより、過去の俺を殺す決意をしたというのか?
詳しい理由は解らないが、これでいよいよ歴史は俺の知るとおりとなったはずだ。

それから数日間かけて、俺は今の歴史における全ての出来事を検証するために、機関の報告書を片っ端から読み漁った。
報告書に書かれていたことは全て、ひとつの漏れも間違いもなく、俺が知る正しい歴史と完全に一致していた。

そして、俺とハルヒが結婚する歴史が生まれ、その二ヶ月後にハルヒは原因不明の病気でこの世を去った。

歴史の改変に関して俺がすべきことはもう何もない。
俺はサングラスを外し、髭を剃り、時間移動をおこなった。
あの卒業式の日。再び長門に会うために。
駅前で長門と最後に会話を交わした直後。長門のマンション、708号室前。
そして、エレベーターホールの方からあのときと同じ、見慣れた人影が現れた。
二年数ヶ月ぶりに会う長門。
長門はあの時と同じ、驚きの色を浮かべた表情で俺を見ていた。
「久しぶりだな、長門。お前はこの時間平面上の俺たちと別れたばかりだろうがな」
以前と同じやりとりをし、俺はリビングに通された。
俺は単刀直入に今までの経緯を話した。
ハルヒが死んだこと。
その原因が解らなかったこと。
長門の力を借りるために、俺は既に一度この時代に来ていて、当時の長門に会っていたこと。
「お前の今の気持ちは解ってる。あらためて言うが、自分を消したいなんて二度と思うんじゃないぞ。俺がお前をずっと地球で生きていけるように努力する」
長門はあのときと同じように、目を閉じ静かに肯いた。
俺は話を続けた。
当時の長門が言うには、ハルヒの病気は情報統合思念体急進派がハルヒに仕掛けた時限装置が原因だということ。
長門が、ハルヒの力を利用した情報統合思念体の抹消を提案し、第二の情報爆発に向かったこと。
そこで情報統合思念体の統括者である老人に発見され、長門は消滅し、歴史を塗り替えられてしまったこと。 
「そのときお前は、俺を老人から逃がすために自らを犠牲にしてくれたんだ」
「そのわたしの判断は適切。もし同じことが起れば、私はまたその道を選ぶ」
「ありがとよ……長門。本当に感謝してる」
そして、老人により塗り替えられた歴史を、俺が二年かけて元の歴史に戻した。
歴史の修正を全て終えて、今こうして再び長門に会いに来た。

「あなたの存在は朝倉涼子により発見され、その情報は情報統合思念体に送られた」
「俺の情報はどこまで知られてるんだ?」
「わかっているのは、あなたが高校にいたあなたの異時間同位体であること、そして情報統合思念体に敵意を持っていること。でも情報統合思念体は、あなたは朝倉涼子によって殺害されたと認識されている。そしてそれ以降いかなる時空間においてもあなたの存在は確認されていない」
「なら、長門も俺は死んでいると思ってたわけか」
「わたしはあなたの生存を確信していた。それを知るのはわたしだけ。他のインタフェース端末では知ることは出来ない。わたしはあなたとの記憶からそれを知った」
「どういうことだ?」
「図書館」
久しぶりに聞く長門の簡潔すぎる回答だった。もちろん俺には意味が解らない。
長門は唇の中央を極々僅かに歪めながら解説してくれた。初めて見る表情かもしれない。
つまりは、俺が過去に鶴屋さんと図書館に行ったとき、俺は鶴屋さんに長門との思い出を話した。その鶴屋さんの記憶を読んだ長門は、それが自分のことだと理解した。
その後の鶴屋さんの記憶から、離れで朝倉に刺された俺が蘇生したという事実を知ったのだという。
「他のインタフェース端末では、たとえ彼女の記憶を読んだとしてもその事実には辿り着かない」
長門は俺の目を見据えて言った。
「図書館の記憶は、あなたとわたしだけのもの」

俺と長門はあらためて作戦を練り直した。
「おそらく情報統合思念体の統括者はまた現れる」
「なんとかならないのか?」
「以前のわたしはおそらくそうならないように努力したはず。でも結果的に統括者は現れた。つまり今のわたしにもそれを防ぐ手段はないと考えられる」
「ならば、奴が現れるのを前提で考えないといけないということか」
「前と同じことを繰り返すことは避けなくてはならない。だがそれは極めて困難。前の歴史との違いは今のあなたが前の歴史を知っていること。だが統括者が現れればあなたの記憶を読まれてしまう。統括者は即座に全てを理解するはず」
「遮蔽フィールドだかコーティングだかで防げないのか?」
「統括者の情報処理能力はおそらくわたしの数万倍のスピード。外的措置による防御は不能。わたしの記憶はメモリ空間の暗号化でしばらくの間防御可能。あなたの記憶を暗号化することは物理的に不可能」
統括者ってのはそんなとんでもない奴だったのか。
「おそらく前回と同じ方法、すなわち涼宮ハルヒの能力を利用した情報統合思念体の消滅は不可能」
ここまで来て俺は諦めなくちゃならないのか?
だが俺は朝比奈さんの言葉を信じる。ハルヒは必ず復活する。そして、そのための切り札はこれしかないはずだ。
「もうひとつ以前と違うことと言えば、俺がこれを持っていることだ」
俺は懐からオーパーツを取り出した。
「お前が鶴屋さんの記憶を読んだならこれは知っているな。俺はこれで命を救われたらしい。これが何だか解るか?」
長門に促され、オーパーツを手渡した。
長門はオーパーツ表面の紋様をひとしきり眺め、前に俺がしたようにそれを握りしめた。
次の瞬間、長門の掌がわずかに開かれ、オーパーツが転がり落ちた。
「どうした、長門?」
「…………大丈夫」
長門はオーパーツを拾い上げた。

「これはあなたの生命の保全と情報統合思念体からの遮蔽機能を持つ」
俺が蘇生した以降、情報統合思念体に発見されなかったのは、オーパーツの機能だったのか。
「さらにこれは情報統合思念体に膨大な影響を及ぼすもの」
やはりこいつが鍵になっているのか。
「それ以上詳しくは話せない。あなたがそれを知れば、その記憶から統括者に内容が知れる。わたしを信じて、全てをわたしに委ねてほしい」
「お前がそういうなら、俺はお前を信じるさ」
いつだってそうだ。俺が長門を信じなかったことなんて一度もない。
「これは賭け。失敗すれば、おそらく二度と涼宮ハルヒを蘇らせる機会は訪れない。だからあなたに言っておくことがある」
「聞かせてくれ」
「あなたには三つの選択肢がある」
また選択か。
「一つ目は、涼宮ハルヒの復活をあきらめ、涼宮ハルヒの能力を利用してTPDDと一部の記憶を放棄し、元の時空に戻り元の生活を送ること。あなたはその生涯を平穏に送り続けることが保障される」
「二つ目は、やはり涼宮ハルヒの復活をあきらめ、今の生活を続けること。あなたは情報統合思念体からの偶発的な脅威を継続的に受け続けることになるが、わたしがあなたを守ることが出来る」
「三つ目は、このまま涼宮ハルヒを復活させる道を歩むこと。これには多大なリスクを伴う。失敗した場合、あなたとわたしは消滅し涼宮ハルヒも復活しない。成功すれば涼宮ハルヒは復活するが、それによってあたなは大きな代償を負わなければならない」
つまりこのまま情報統合思念体に見つからないように細々と暮らすか、全てを捨てて元の生活に戻るか、危険を冒し代償を覚悟してでもハルヒを救うか、ということか。
「長門」
選択の余地などない。俺は既に答えを決めてここに来ているんだ。
「ハルヒを救う道がそれしかないのなら、俺は可能性にかけてみたい」
長門は真っ直ぐな視線を俺に送り、そしてゆっくりと首を傾けた。
「わかった」



第 七 章


もはや俺に出来ることはなにもない。長門を信じて情報統合思念体と決着をつけるだけだ。
卒業式の三日前に俺たちは飛んだ。不穏な暖かさに別の寒気を感じる。
長門が俺の手を取り、俺たちは無言で閉鎖空間に侵入した。
これで三度目になる、ハルヒによる最後の閉鎖空間。最初に来たときからは既に七年近くの歳月が過ぎている。
当時はまさかこんな未来が待っていたなんて全く想像していなかった。俺は閉鎖空間の消滅により全てが終わったのだと確信していた。それが全ての始まりだったことなど、知る由もなかった。
ハルヒの情報爆発が始まり、長門が前と同じように情報統合思念体の抹消作業に入る。もちろんそれが成功するとは思っていない。
そして長門の予想どおり、そいつは現れた。
「お待ちなさい」
あのときと同じ、ゆったりとした口調。だが、次に発した言葉は以前とは違っていた。
「おやおや……これは驚きました。これが繰り返された歴史だったとは」
長門の言ったとおりだった。この野郎、もう俺の記憶を読みやがった。
「久しぶりだな」
「私はあなたと会うのは初めてですがね。なるほど。朝倉君の報告はどうやらあなたのことだったようですね。合点がいきました」
朝倉がどうのと言うのは前にも聞いた話だ。そして今の俺にはその意味も理解出来る。
「あなたが私どもですら越えられない時間断層を突破していたとは。さすがは涼宮さんに選ばれただけのことはありますな」
そう言うと、老人は朗らかに笑った。
「さて、おしゃべりはこのくらいにしておきましょうか。どのみちあなたがたはこれから何が起こるかはご存知でしょう」
「ああ。お前らの思い通りにはさせないがな」

「それは私どもも同じ。今度はあなたがたを確実に消し去ることにしましょうか。あなたがたには何やら秘策があるようですが、有機生命体とインタフェース端末の情報処理能力では何をしようと結果は同じこと」
「あなたは知らない。これがどういうものか」
長門は老人に対して一歩踏み出し、オーパーツを取り出した。
「これは情報統合思念体に対して与えられた選択。あなたたちはそれを選ぶことができる」
「聞かせてもらいましょうか」
「自律進化の可能性と引き換えに、涼宮ハルヒの殺害を諦め、今後地球に一切干渉しないことを約束するか」
長門はオーパーツを握った手を老人に向け、
「それとも今ここで消滅するか」
老人は目を細めた。実に愉快そうに。
「随分と強気ですな、長門君。ですがわたしどもは既に自律進化を放棄しています。そんな選択も約束も必要ありませんな。私は今この場であなた方を消滅させるまでです」
「この装置が自律進化の真の可能性になり得るとしても?」
「ほほう。自律進化の真の可能性ですと」
長門は話し始めた。あのマンションで俺が初めて長門の正体を明かされたときのように。
「情報統合思念体は全宇宙を知覚しあらゆる情報を得ることが出来る。逆に言えばそれは新たに得るべきものが何もないということ。それこそが自律進化の閉塞につながっている。情報統合思念体は進化のものさしを情報処理の能力、つまり速度と正確性に求めた。それはひとつの基準として間違ったことではない。だが情報を得ることと理解するということは同じではない」
「地球上の有機生命体は肉体を持つがゆえの物理的進化と物理的退化を繰り返し、主体的、客体的にそれを取捨選択した。その結果人類はここまでの自律進化を遂げた。進化と退化は本質的に同義。

情報統合思念体には退化といういう概念も客体的という概念も存在しない。情報統合思念体が自律進化の限界に達しているのは、硬直的な一方向のみの進化を続けたことが原因。つまり情報の取捨選択に関して自らの価値観、ものさしのみを基準にしていたということ」
老人は穏やかな表情を崩さずに聞き続けていた。

「情報統合思念体は長らく涼宮ハルヒを観察したにもかかわらず、幾度となく発生した情報の奔流に対してノイズ、ジャンク情報という判断しか下せなかった。それが情報統合思念体の進化の限界を表している。自律進化への道を開くには、今まで不必要な情報として切り捨てていたものに目を向ける必要がある。情報統合思念体が重要視しなかった情報にこそ自律進化の鍵がある。それは涼宮ハルヒにより断続的に生み出された情報に凝縮されている」
「情報統合思念体に必要なのは今までとは別のものさし。だがあなたたちは有り余る情報の全てを得ているがゆえに、その結論には至らない。涼宮ハルヒの情報は、肉体を持たない物にとって理解するのは難しい。私は肉体を得ることで情報処理能力に制限が課せられたが、同時に別の情報を理解する能力を得た」
「有機物などという器がどれほどのものだと言うのです」
割って入る老人に構わず長門は続ける。
「涼宮ハルヒによる第二の情報爆発により、情報統合思念体は未来との同期機能を失うことで時間の概念を得た。それは自律進化にとって大事なこと。あなたたちも一度はそれを認めたはず。でも結局あなたたちはそれを放棄し自律進化への道を自ら閉ざした。今の情報統合思念体が自律進化の可能性を得るには大きなきっかけが必要。情報統合思念体が今のものさしに縛られている限り、これ以上の進化はあり得ないもはやそれは客体的な退化を経験することでしか得られない。」
「空言ですな」
「この装置には、人間の持つあらゆる感情が蓄積されている。感情が我々に対して多大な影響を及ぼすことは、わたしや朝倉涼子の事例を通して知っているはず。感情こそが情報統合思念体を滅ぼす力であり、自律進化の可能性への真の鍵。感情が情報統合思念体に流れ込むことにより、無矛盾の秩序に矛盾を生み出し崩壊を誘発させる。それにより情報統合思念体に散在する無数の意識の淘汰が開始される。それに耐え、それを乗り越え、それを克服すること」
長門はきっぱりと言った。
「それこそが自律進化への道」

老人から笑みが消えていた。
「もし情報統合思念体が自律進化を望むなら今がそのとき。わたしの言葉を信じるべき」
老人は長門を睨むように見据えている。
「もう戯言は結構です。有機生命体の持つノイズで我々の進化が得られるなどと」
長門はゆっくりと首を振った。老人を見やるその表情が寂しげに見えた。
「あなたとの相互理解は不能と判断した。それはとても残念なこと」
「人間のような下等な存在に篭絡されおって」
長門はしばらくのあいだ目を閉じ、意を決したかのように老人に強い視線を送り、
「あなたが人類を語るなど」
そしてこう言い放った。
「五百万年早い」
老人があからさまに言葉を荒げた。
「所詮お前たちと解り合うことなど不可能ですな。では永遠に消えてもらいましょう。二人一緒に」
その瞬間、長門の手にしているオーパーツが輝きを放った。

「終わった」

長門の瞳がわずかに潤んでいた。
「……わたしは言葉を尽くした。でもわたしの言葉は聞き入れられなかった」
突然、老人が叫びだした。頭を抱え、苦しんでいるように見える。
「……わたしはあなたたちの理解を望んでいた。人類との共存によって得られる未来を。でもその望みは叶えられなかった」
老人の叫びは収まらない。
長門は俺に向きなおり、
「わたしとの会話で、統括者はインタフェース端末を通して怒りという感情を理解した。この装置の持つ情報を統括者に送り込むためには、統括者に感情を生み出させる必要があった」
老人の叫びが止み、俺は目を見張った。今度は老人の頭が目に見えて膨らんでいく。

「統括者には、この装置からの莫大な量の感情が流れ込んでいる。もはや彼にそれを止める手立てはない」
老人が長門のそれよりもはるかに速いスピードで呪文の詠唱を開始した。しかしそれでも頭部の肥大化は止まらない。
「怒りに目覚めた統括者は、既に統括者自身にも制御不能。最悪の場合……」
長門は静かに目を閉じ、
「宇宙は無に帰する」
頼むからそんな恐ろしいこと言わんでくれ。
巨大な風船が破裂するかのような音が周囲に鳴り響いた。
内圧に耐え切れなくなった老人の頭部が崩壊したのだ。
その破片とともに、老人の体全体が情報連結解除され、輝きながら消えていく。
いや、消えていない。
光り輝く粒子たちは、はじめ霧のような状態で老人がいた周囲を漂い、そして別の物を形作り始めた。
「これは……」
老人の怒りが具現化したものだろうか。次第に姿を明らかにさせてゆく目の前のそれは、高さ、横幅とも十メートルほどの、言葉では言い表せない物体だった。
俺が知る、怪物とか悪魔とか鬼神とか、そういった想像上の生物を含めた全ての物体の中で、それは最もおぞましいかった。
俺は恐怖で腰が抜けそうになり、かろうじて踏みとどまった。
ハルヒと出会って以来、今まで散々恐ろしい目に遭ってきたおかげで、俺は大抵のことには動じなくなっていた。
だが目の前のそれは、今まで起こったどんな出来事よりも俺に恐怖を感じさせた。
やがて、表現も理解も出来そうにないその物体は完成し、しばらくの間、時間が止まったかのような静寂が訪れた。

そして次なる恐怖がやってきた。
時空振動。
大規模とか超弩級とか、そういうレベルではなかった。以前の老人のそれとはさらに桁が違う。
宇宙に存在する全ての空間と時間が一点に凝縮されるような感覚。つまり、宇宙開闢の逆のことがおこなわれようとしている。
長門の予想が現実のものになろうとしていた。言わんこっちゃない。
「わたしたちに出来ることはもはや何も残されていない。これから何が起こるかは予測不能。人類の言葉を借りればこれから先のことは」
長門は天を仰ぎ見た。
「神のみぞ知る」
目の前の物体から触手のようなものが伸びた。
それは地面を鋭く蛇行しながら、一呼吸の間に俺たちの足元にまで到達した。
戦闘態勢を取るように、触手の頭部が目の前に屹立する。
まさにヘビに睨まれたカエル状態だった。足がすくむとはこういうことだったのか。腰から下は震えるばかりで俺の意思どおりには全く動いてくれない。
長門を見る。長門も完全にフリーズしていた。戦ってどうにかなる相手だとは思っていないのだろう。
赤茶けた触手が俺たちを見下ろすようにわずかに上下に動く。次にその先端に黄色い光の点が生じ、それが次第に輝きを増す。やばい。やられる。

突然、俺たちの目の前を光の壁が遮った。

鈍い音とともに地面が激しく揺れ、振動で倒れそうになった俺はなんとか踏ん張る。
背後からも、同じように眩いばかりの光が注がれていた。振り向く。そこにも光の壁が立ちはだかっていた。
違う。
壁ではなかった。俺はそれを仰ぎ見た。
青く輝く高さ数十メートルの巨大な人型。
神の人。

「ハルヒ、お前なのか!?」
神人の左手が、俺たちと触手の間を遮ってくれていた。
物言わぬ巨人は呼吸するように体を前後に揺らす。
「こっちだ、長門!」
俺は長門の手を引き、慌ててその場から離れる。
屈んでいた神人が両手をぶらりとさせたままゆっくりと立ち上がる。
老人の成れの果てを見据えるかのように、頭部がわずかに動いた。
神人の右腕が緩慢に振り上げられ、次の瞬間、それが異形の物体めがけて叩きつけられた。
「やったか?」
衝撃で舞った土煙の中から、老人の周囲を覆う赤黒い光の玉が見えた。神人の腕はそれに阻まれ本体まで到達していない。
神人は両拳でもって交互に球体を殴打し始めた。その度に、硬質の金属を叩くような高音と、雷鳴のような低音が響き渡る。
相手がビルであったらそれは既に跡形もなく粉砕されているであろう、凄まじいスピードとパワーでパンチを繰り出す。
だが光の球体はビクともしていない。それでも神人は攻撃の手を緩めない。
球体の正面から一本の触手が伸び出し、瞬時に神人の左足にまとわりつく。
あたかも羊羹を糸で切るかのように、あっけなく神人の足が切断された。
バランスを崩した神人が片膝をつき、地面が鳴動する。俺たちも立っているのがやっとの状態だ。
もはや俺には祈ることしか出来ない。俺は掌を合せ、それをしっかりと握りこんだ。
「頼む、ハルヒ」
神人の両手が触手を掴み取り、力任せにそれを引きちぎる。球体の中の物体が、内側に勢いよく激突する。金属音が耳をつんざき、思わず耳を塞ぐ。
球体の、触手が出ていた部分を神人がぶん殴った。そこを中心に球体に亀裂が走る。
亀裂に向かってさらに神人の右手刀が叩き込まれる。球体を貫通した。だが本体までは届かない。
即座に球体の修復が開始され、神人の右掌が挟まれる。

神人は素早く左手を亀裂に突き入れた。両掌を無理やりに返し、球体をこじ開けるように左右の腕に力を込める。
ガラス板に圧力をかけたようなミシミシという音と電流のショートするような音が同時に流れる。
球体の左右から無数の触手が飛び出し、神人の腕に向かって伸びる。
触手が神人の腕を締め上げる。だが切断されない。触手が絡まっている部分の周辺の光が青から赤に変わっていく。
両腕が球体をさらに左右に開く。限界点に達した球体が鈍い破裂音を伴って粉々に砕け散った。
中の物体めがけて神人が頭突きを喰らわせる。
触手は力を失ったかのように神人の腕を離れ、それらが地面に打ちつけられる。
神人は両手を組み、上半身全体を目いっぱい使って振りかぶる。そしてそれは振り下ろされた。

大気と大地が同時に揺さぶられ、辺り一面に轟音が鳴り響いた。

神人の手の先に輝きが生じ、無数の光の粒子が爆発するように周囲に拡散していく。
そして今度こそその粒子たちは光を失い、闇のなかへと消えていった。
それまで感じていた宇宙全体を揺るがす時空振動が、嘘のように消え去った。
老人の暴走が止み、宇宙消滅の危機が回避されたのだ。
役割を終えた神人もまた、中心部から外側にかけて粒子化していた。
頭部が消滅する寸前、神人は俺たちの方を向き、わずかに首を傾けた。
俺には神人が微笑んでいるように見えた。

こうして、おそらくこれが最後になるであろう閉鎖空間は消滅した。

閉鎖空間消滅の刹那、俺は微かな時空振動を感じた。それはなぜか俺にとって、とても心地よく感じられた。
今まで欠けていた何かが埋まるような、バラバラだった何かが急に整然とまとまるような不思議な感覚。
そうか。情報統合思念体によってハルヒを殺され、大掛かりに塗り替えられてしまった歴史、その歴史の歪みが解消されたのだ。

結局のところ老人の暴走は、朝倉が暴走したのと同じ理由だった。
朝倉は長門と同じく未来の自分と同期が出来た。だが朝倉は自分が消滅する結末を知ってか知らずか、結局は暴走した。
それはこのオーパーツの影響だった。
朝倉がオーパーツを手にした俺を殺そうとしたとき、朝倉にはある感情が芽生えていた。
変化のない観察対象、涼宮ハルヒに対する苛立ち。
自分のことなど全く歯牙にもかける様子のない涼宮ハルヒ、そしてハルヒに選ばれた俺に対する憎しみ。
同じインタフェース端末として、長門のバックアップに甘んじることへの嫉妬心。
それらが、俺を惨殺した際に複雑に入り混じった。
そして、その感情をきっかけにしてオーパーツからの感情の奔流に見舞われ、朝倉は最終的に暴走したのだ。
「私があの十二月十八日に世界を改変したのも同じ理由」
それについては、俺自身が以前出した答えと同じだった。
長門は長きに渡るSOS団での生活により行き場のない感情が蓄積し、それが飽和して暴走したのだ。
そして今回、老人にわずかな感情を芽生えさせることによりオーパーツの機能が有効化し、老人は消滅した。
「これから情報統合思念体がどのような道を歩むのかはわからない。ひとつ言えるのは、あなたと地球に対して今後も情報統合思念体からの脅威が迫る恐れがあるということ。そして、それらからあなたと地球を守るのもこの装置の役割」

全てはこれで終わった。
俺は一刻も早く、あの頃のハルヒに会いたかった。
長門とともに、ハルヒが命を落とした日へと移動する。俺とハルヒが暮らしていた新居へ。
だが、そこにハルヒの姿はなかった。
なぜだ? まさか歴史が変わっていないのか?
俺たちはハルヒが入院していた病院の個室へと向かった。
ベッドに横たわったハルヒが確かにそこにいた。
その横にはハルヒに付き添う過去の俺の姿があった。
なぜだ? 俺は何か失敗してしまったのか?
長門が言った。
「情報統合思念体の仕業ではない」
だったら、どうしてハルヒはまだ病気にかかっているんだ。
長門はわずかに首を振った。
「原因不明」
医師の話を盗み聞きしたところ、ハルヒは最初に倒れて以来、一度も目を覚ましてないのだという。
それって前より状況が悪化してるじゃないか。

あのときの俺には祈る以外に出来ることは何もなかった。ハルヒが回復することだけを願い、日々祈り続けていた。
そして、それは今の俺も同じだ。俺が出来る全てのことを、俺は既にやり尽くしていた。
後は、朝比奈さんの言葉を信じるしかない。
『涼宮さんが死ぬことは既定事項ではありません』
ハルヒがこの世を去る時間が、刻一刻と迫っていた。
目の前には、ハルヒに先立たれる直前の疲れきった俺がいた。
過去の俺がそうしてしまったように、目の前の俺もいつしか眠ってしまっていた。
ハルヒが死に、その先の数日間で俺は一生分とも思えるほどの涙を流し続けた。
俺はもう一度あの辛い想いを繰り返さなければならないのか?
もうすぐ運命の時がやってくる。
永遠とも感じられるほどの時間が流れた。

そして、ついにそれは起こった。

ハルヒは何の前触れもなく、突然目を覚ました。

「キョン!?」
勢いよくその上半身を起こし、不安そうな声で叫ぶハルヒ。
驚きのあまりしばらく硬直していた俺は、やっとのことで、かろうじて呼び返すことが出来た。
「ハルヒ……」
大きく息を吸い込み、俺はもう一度、はっきりとした声で呼んだ。
「ハルヒ!」
ハルヒは俺に気づかない。どうしたんだハルヒ? 俺はここにいる! 
俺はハルヒに駆け寄ろうとし、長門の腕がそれを制止した。
「彼女には私たちの声は届かない。姿も見えない」
そうだ。遮蔽フィールドが俺たちを包んでいるのだ。
もう一人の俺がようやく目を覚ました。
「ハルヒ……」
さっきの俺と同じセリフだった。
二人はしばらく目を合わせ、そしてしっかりと抱き合った。
医師たちが病室に駆けつけ、呆然とした表情で二人を見守っていた。
今まさに、奇跡が、この場で起こったのだ。感動的な光景が俺の目に広がっていた。
今までの俺の苦労はこれでようやく報われたのだ。
俺は目の前の二人の姿を、我がことのように祝福した。片方はまさに俺なんだからな。
涙で視界が次第に霞んでいった。

病室を出た俺たちはいつもの公園に移動し、ベンチに座っていた。
俺は今まで薄々ながら気づいていたことが、はっきりと現実になったことを悟った。
ハルヒが蘇った喜びをハルヒと共に分かち合えるのは、さっき俺の目の前にいた俺であって、この俺ではない。
このままでは俺はハルヒと軽口を交わし合うことも抱き合うことも出来ないのだ。
俺が再びハルヒとの生活を取り戻す方法はないのか?
そして俺は過去の出来事のひとつを思い出した。
この状況はよく考えてみれば以前長門が世界を改変したときと同じではないのか?
俺が朝倉のナイフによって倒れたとき、その時間平面上には刺された俺、未来から世界を元に戻すためにやって来た俺、それ以外にもう一人俺がいたはずだ。
これから起こることなど何も知らず、自宅のベッドでいつもどおりぐっすりと眠っていた俺が。
その後、未来の長門によって世界が再改変されたとしても、そいつの存在は消えないはずだ。
では刺された俺は、眠っていた俺といつ入れ替わったんだ?
そのときと同じことをすれば、今回もこの俺ともう一人の俺が入れ替われるんじゃないのか?
長門はゆっくりと首を振った。
「あのときは暴走した私によって改変された三日間を残し、脱出プログラム起動直後から世界を再改変した。あなたを除く他の人に架空の三日間の記憶を与えて」
そうか。つまりは、あの時眠っていた俺はその後、朝倉に刺された俺がそうしたように、改変された世界に混乱しつつも三日後の夕方になんとか脱出プログラムを起動し、当時から三年前の七夕へと移動したんだ。
そうしてその次の瞬間から世界は変わり、刺された俺は夕方の病院のベッドで目を覚ましたということだ。
『いったん暴走したわたしに世界を改変させておいて、それから修正プログラムを撃ち込む。そうでないとあなたが脱出プログラムを起動させる歴史が生まれない』
当時の長門の言葉の意味を、俺は今になってようやく理解した。

ならば、今回の歴史改変はそれとは決定的に違うことがある。
今の俺はハルヒが死ぬことによってTPDDを得て過去に飛んだ。ハルヒが死ぬという歴史があって初めてこの俺は存在している。
そしてハルヒが死なない歴史での俺、つまりさっき目の前にいた俺は、TPDDを得ることもなくその生涯をハルヒとともに過ごす。
つまり、この歴史では俺のいるべき場所はどこにもないのだ。
「長門、お前の力でなんとかならないのか?」
「今の私にはその力はない。私は既に情報統合思念体とは決別している。涼宮ハルヒの能力も既に失われていて利用出来ない。唯一残された手段は、もう一人のあなたを殺してあなたが入れ替わること」

目の前が真っ暗になった。
あいつは俺自身だ。俺が最も望んでいた、ハルヒと平穏な生活を送り続ける、幸福に満ちた理想の姿だ。
ハルヒの病気に誰よりも心を痛め、ハルヒの回復を誰よりも待ち望んでいた、ほんの二年前の俺なんだ。
そんな俺を、この俺が殺すなんてことが出来るわけないじゃないか。
俺は絶望していた。これで本当にハルヒとは永遠にお別れなんだな。
「こうなることはわかっていた。でも涼宮ハルヒを蘇らせるには、他に方法はなかった」
あらためて俺は朝比奈さんや長門の言っていた代償の意味を知った。
俺はハルヒを救うために、今までの人生もこれからの人生も全て捨ててしまわなければならなかったということだ。
こんなことなら代償が俺の命だった方がよほどマシだとさえ思えた。俺はこれから先どうやって生きていけばいいんだ?
俺には既に生きる目的が見えなくなっていた。
「……もう今すぐにでも消えちまいたい気分だ」
無意識に気持ちが口を伝って出ていた。

しばらくのあいだ頭を抱えていた俺は、強い意思が込められた無言に気づかされた。
長門が真っ直ぐな視線を俺に送っている。
その瞳に、明らかな非難の色が浮かんでいた。
「私にもあなたの悲しみが理解出来る。だから……」
長門は目を閉じて言った。
「自分を消すなんて言わないで」
俺は凝然とした。これは俺が長門に言った言葉じゃないか。
長門は今の俺に、あのときの自分の姿を重ねているのだ。
そして長門は、ためらいがちに、だがはっきりと俺に告げた。
「こんなことを言うべきではないのかもしれないけれど……私は涼宮ハルヒとは別の道を歩むことになったあなたという存在を嬉しく思っている」
この言葉を聞いて、俺はようやく長門の気持ちをはっきりと確信した。俺は本当にバカだ。
そして、俺は今までの長門に対する俺の振る舞いに対して呆れ、悔やみ、そして叱責した。

――お前は長門に何と言った?
どこにも行くところがないなんて二度と言うんじゃない、だと?

――お前は長門と約束したんじゃなかったのか?
俺がお前を地球でずっと生きていけるように努力する、と。

――お前が高校生の頃に思っていたことは嘘だったのか?
長門との約束なら俺は死んでも守ってやるつもりだ。

俺に生きることを放棄する資格など、どこにもありはしない。
自分とハルヒのことに精一杯で、俺はこんな大事な約束すら忘れていたのだ。長門の気持ちなど考えもしないで。
長門は始めて会ったときからこの今まで、ずっと何の見返りも求めずに俺のために尽力してくれた。
俺は数え切れないくらい長門に救われてきた。それだけじゃない。ハルヒの命をも救ってくれた。そして一度は俺のためにその命さえ捨ててくれたのだ。

ならば、俺は残りの人生は、全て長門のために費やすべきじゃないか。
いや、それでも全く足りないかもしれない。それほどのことを長門は俺にしてくれたのだ。

「ひとつ頼みがある」
俺は意を決して言った。
「俺の記憶を消すことは出来るか? 俺のハルヒに対する恋愛感情だけを全て」
目を閉じた長門が静かに否定した。
「私には既に記憶改変の能力はない」
しばらくの沈黙。
「でも……」
長門はとまどいを見せ、そしてこう言った。
「恋愛感情を変化させることは、あるいは可能かもしれない」
「少しでも可能性があるなら」
俺は長門を見つめ宣言した。
「ためらわなくていい。思いっきり、盛大にやってくれ」
これから自分の身に起こるであろう何かに対して、俺は覚悟して目を閉じた。
俺は激痛とともに意識を失ってしまうのか。
あるいは突然頭の中が操作され、何かが変わってしまうのか。

……身構えている俺の口元に、唐突に、柔らかく暖かいものが触れた。
予想外の出来事に、恐々と開かれた俺の目は、さらに見開かれることになった。

目を閉じた長門の唇が、俺の唇に不器用に押し当てられていた。

俺はしばらくの放心の後、ゆっくりと、再び目を閉じ、そしてこう思った。

――なるほど、確かにこれは恋愛感情の変化には効果的かもしれない――

生き続けることを決心した俺は、ハルヒの高校卒業に併せて執りおこなわれた機関の解散パーティーに出席した。
お世話になった人たち、そしてもう会えなくなってしまう人たちに、別れの挨拶をしなくてはならない。
「皆さん、大変お待たせしました。ただいま戻りました」
卒業式後のSOS団解散式から会場に駆けつけた古泉が盛大な拍手で迎えられ、それと同時にパーティーは開始された。
それはSOS団解散式に勝るとも劣らない、壮絶な盛り上がりっぷりだった。会場の全体が常に笑いと涙で占められていた。
ハルヒによる理不尽極まりない数々の試練に対して、六年もの間苦楽を共にした仲間たちが集まっているのだから、それは当然のことだった。
晴れやかな笑顔を振りまきながら祝い酒を次々に飲み干す森さん。
静かに涙する新川さんと、抱き合って喜びを表現する田丸さん兄弟。
他の能力者たちに囲まれながら、意外にも大泣きしている古泉。
俺が機関に関わったのは実質的にはわずかの間だったが、それなりの思い出はある。間接的に関わっていた高校生の頃のこともある。俺の目にも涙が浮かんでいた。
機関の大部分のメンバーは、俺がどういう立場の人間なのかを知らなかったが、それはそれでありがたかった。いまさら創設者だと紹介されて、挨拶なんかさせられるのはご勘弁願いたかったからな。
俺は会場の片隅でパーティーの成り行きを見守る鶴屋家当主に挨拶に向かった。
「お世話になりました。あらためてお礼申し上げます。おかげで無事に役目を果たせました」
俺は心の底からの感謝を込めて最敬礼をおこなった。俺の歴史改変の全ては、当主がいてくれたからこそ成し遂げられたのだ。
本人を前にして感謝の意を表すのはこれが最後になる。当主はこの三年後に、急な病で命を落とすことになるのだ。
「こちらこそ、楽しいひとときを提供していただいて感謝しております。気が向いたらいつでも当家にいらしてください。娘もあなたが来るのを楽しみにしております」
当主は愉快そうに笑った。この人と出会わせてくれた運命にも、俺は心から感謝した。

俺はその四年と半年後、つまりハルヒが復活してしばらく後の時空に戻り、鶴屋さんに会いに行った。
「お久しぶりです鶴屋さん」
「ジョン兄ちゃん、久しぶりっ! いや、キョン君って呼んだ方がいいのかなっ?」
「ええ、どちらでも構いませんよ。今日は先代と鶴屋さんにご挨拶をと思いまして」
俺は当主の葬儀に参列出来なかった。昔の俺やハルヒと対面するわけにはいかなかったから。
当主の遺影に向かい、手を合わせた。あの時は言えませんでしたが、ようやく全てが終わりました。俺が今こうしていられるのも全てあなたのおかげです。
「先代と鶴屋さんには本当にお世話になりました。何とお礼を言っていいか。俺に出来ることなら何でもしますよ。何だったら未来のアイテムか何かを買ってきましょうか?」
「いいっていいって。あたしもジョンにはいっぱい世話になったからねっ。ところで、これからどうすんだいっ?」
「ええ、実は少し歴史がこじれてしまいまして。この時代にいる、鶴屋さんと同じ時間を過ごした俺と、今ここにいる俺は別の道を歩むことになっちゃいました」
「それは何となく感じてたよ。キョン君とジョン兄ちゃんは同じであってどこか同じじゃないなって」
「これから俺は少し未来に行こうと思ってます。この時代で生きていくには何かと不便が多くて。この時代の別の場所で暮らすのもいいんですが、別の時代のこの場所ってのも悪くないなと思いまして」
「そっかー。いよいよお別れなんだね」
「俺としても名残惜しいですが。この時代に残るもう一人の俺とハルヒをよろしくお願いします」
「あははっ、まかせときなっ」
鶴屋さんは俺のよく知る笑顔で答えてくれた。
「それにしても不思議なもんだね。中学生のあたしの前に現れたジョン兄ちゃんに、高校の下級生として北高で再会するなんてね。ジョンがまさか年下の男の子だったとは思いもよらなかったよっ」

そして鶴屋さんは俺に思いがけないことを告げた。
「今だから言うけど、あたし結構ジョンのこと好きだったんだよ。ううん、正直に言えば初恋の人だったの。結ばれない運命ってのは最初から解ってたことだけどねっ」
想像もしていなかった告白に俺は言葉を失った。
「でも、それはあくまでジョンのこと。キョン君じゃないの。私、年上が好みなのかなっ?」
鶴屋さんの瞳に涙が浮かんでいた。俺はまたしても鶴屋さんを泣かせてしまったのか?
「せっかくだから、じゃあひとつだけわがままさせて貰おうっかな?」
そう言った鶴屋さんは唐突に俺にキスをした。
「未来でも元気でね。あたしはジョンのことずっと覚えてるからねっ」
すっかり狼狽していた俺はかろうじて「ありがとうございます」とだけ言えた。
鶴屋さんもどうかお幸せに。俺はこれからの人生、長門とともに鶴屋家をずっと見守り続けます。

それからしばらく経ったある日、未来への移動の準備で色々と買出しをしていた俺は、思いもよらない人物に声をかけられた。
「お久しぶり。随分探したわ」
そいつの笑顔を見て、俺の体から否応なしに冷や汗が噴き出してくる。
それは、消えたはずの朝倉涼子だった。
「お前、どうして……」
それ以上は言葉にならなかった。
「あなたにずっとお礼を言いたかったの。迷惑だったかな?」
お礼にアーミーナイフなんて欲しくないぞ。
「安心して。もう襲ったりしないわよ」
朝倉が場所を変えようと提案し、俺たちは近くの喫茶店に入った。
やれやれだ。朝倉と喫茶店でお茶だと?
席についた朝倉は、昔を懐かしむような表情で語り始めた。
「あのとき長門さんによってわたしの肉体は消滅したけれど、わたしの意識は情報統合思念体に回帰したの。そしてあの二度目の情報爆発の日、わたしは他の意識とともに感情の奔流を経験した。情報統合思念体はあの日以来すっかり変わったわ。今や生き残った意識は数少ないの。わたしが今こうして存在しているのは涼宮さんや長門さん、それにあなたのおかげ。あなたたちがわたしにあらかじめ感情を萌芽させてくれたからこそ、わたしはあの感情の奔流を乗り越えることが出来たの」
「そのおかげで俺は二度も殺されかけ、実際に一度殺されたんだがな」
「お願い。それはもう言わないで」
片目を閉じて両の手を合わせる朝倉を見て、俺は正直に失言を詫びた。
「長門さんがあの閉鎖空間で言ったとおり、人間の持つ感情がわたしたちに与えた影響は絶大だったわ。そして情報統合思念体は多くのものを失い、多くのものを得たの。これが自律進化の可能性と言うのであれば、それは多分そうなのかもしれない」

朝倉は運ばれてきたアイスレモンティーをストローで愛おしそうに飲んだ。
「今のあたしはね、毎日が楽しいの。この先自分に何が起こるのか解らない、そう考えるだけでワクワクする。あたしはこれから自分の求めるものを自分自身で探しながら生きていくの。感情とともに。これって素敵なことだと思わない?」
「ああ、その通りだと思う。人間は常にそうやって生きてきたんだ」
「そうよね。あの頃のわたしには想像もつかなかった。今思えば、あの頃のわたしは確かに涼宮さんや長門さんに嫉妬していたのだと思うの。何も解ってないわたしなりにね」
朝倉はそう言って笑ったあと、表情を真剣なものに変え俺に告げた。
「情報統合思念体の中では、今の状況を自律進化への道として受け入れている意識が大多数なの。つまり今はわたしも主流派。でもね、一部の意識は人類、特にあなたと長門さん、涼宮さんに対して未だに恨みを持ち続けているの。だからこれから先気をつけて。あの装置があればあなたと長門さんは多分大丈夫だとは思うけど。それと、涼宮さんともう一人のあなたのことはわたしにまかせて。わたしが彼らを陰ながら守ってみせるから。これはわたしの、あなたたちへのせめてもの恩返し。わたしはそれをあなたに伝えたかったの」
そして朝倉は元の笑顔に戻った。
「長門さんに会えなかったのは残念だけど、よろしく伝えておいてね」
俺たちは喫茶店を出て、その場で別れた。
「前にもお別れの言葉は言ったけど、今度は本心で言うね」
朝倉はあの時と同じ、そしてあの時とは違う笑顔で言った。
「長門さんとお幸せに」
そう言って朝倉は俺に歩み寄り、あろうことか俺の頬にキスをした。
「一応言っとくけど、これは長門さんへのあてつけね。それじゃあ」
なんだか最近みんなが俺にキスをしてくれる。
これが長門に知れると、俺はしばらく口をきいてもらえなくなるんだがな。ちなみに、鶴屋さんのときは三日間だった。
そしてこれは必ず長門の知るところとなる。俺が長門に隠し事なんて出来るわけないからな。
今度は何日間になるんだろうな、そんなことを思いながら俺は朝倉の後姿に笑みを投げかけていた。

俺は少し迷ったが、古泉にも会うことにした。
古泉とは機関の解散パーティーで少しばかり話はしたが、やはりこいつには全てを話しておかなくちゃいけないという気がしたからな。
「そう言うわけで、既に解っちゃいると思うが、俺が機関の親玉だ」
「ずいぶんと今更ですね」
そう言って古泉はいつもの笑みを俺に向けた。
「お前はいつから気づいていたんだ?」
「それはもう、部室で最初に会ったときからですよ。あなたには他の人にはない独特の雰囲気がありますからね」
やれやれだな全く。
「解散式の時にも言いましたが、あなたには本当に感謝しています」
「今はほぼ同い年だ。その言葉遣いはやめてくれ」
「いえ、機関の創設者であるあなたにはそれは無理です。たとえあなたの命令であっても」
「なら、せめてもう一人の俺には今までどおりタメ口を聞いてやってくれ」
「それはこれからもそうですよ。向こうのあなたと私は友人関係です。それに私はあちらの彼にはお世話になってませんしね。いえ、全くと言うわけではなくてそれなりにお世話にはなりましたが」
「そんなに気を遣わなくていい。あっちの俺は同一人物だが既に別人だ。それと、解っているとは思うが、ハルヒともう一人の俺には、この俺のことは話さないでくれよ。あいつらに余計な心配はかけたくない」
「それはもちろんですよ。いたずらに混乱させるだけでしょうからね」
「何か困ったことがあったらいつでも呼んでくれ。と言ってもお前から俺に連絡する方法はないか。俺が困っているお前を見つけたらすぐさま助けに行くさ。少し行くのが遅れるかもしれんが、それは俺の時間軸で遅れるだけであって、お前の時間軸ではピンポイントで行ってやる」
「ありがとうございます。その節は是非よろしくお願いします」
「それと、最後に」
俺は少し照れくさかったが、本心を言った。
「今まで苦労した分、幸せになれよ」
古泉は俺に感謝の言葉を述べ、涙を浮かべた。俺も涙ぐんでいた。
でも、頼むからお前はキスなんかしてくれるなよ。長門は怒らないかもしれないがな。

最後にもう一度だけ行きたいと言う長門とともに、俺たちはあの図書館に足を運んだ。
思い起こせば、本当に色んなことがあった。
ハルヒに振り回され続けた高校時代。
ハルヒとともに人生を歩むようになった数年間。
そして、ハルヒを救うために超能力者の機関を作り、未来に飛び、歴史を改変した日々。
俺の今までの人生は幸せだったんだろうか?
そんなこと、今更問いなおすまでもない。普通の人間では決して体験出来ない波乱万丈な人生を送れたんだ。不平不満など言おうものなら天罰が下る。
高校生の頃の俺も思っていたじゃないか。こんな面白い人生を提供してくれたハルヒに感謝する、とな。
ハルヒと離れ離れになったのは正直なところ今でもわだかまりが残っているが、それに関してはもう一人の俺が、俺の代わりに幸福を満喫してくれればいいことなのさ、きっと。
読書に集中している長門の横で、俺はそんなことを考えていた。
ふと、俺たちの背後に人の気配を感じた。
何の気なしに振り返った俺は、次の瞬間には絶句していた。
俺はその姿を見てあからさまに驚き、それを取り繕う余地など全く与えられなかった。

そこに立っていたのは、紛れもなく涼宮ハルヒだった。

しまった。ハルヒは長門を見つけてここに来たのだろうか。
考えろ。この状況からどう逃れればいい。まさか俺に気づくとも思えないが、果たして長門はうまく誤魔化してくれるだろうか。
長門を見た。俺と同じように絶句してやがる。いやその表現は正しくないな。絶句こそが長門の基本モードだ。
ええい、そんなことを考えている場合じゃない。さあどうする。
そんな俺の狼狽を知ってか知らずか、ハルヒは俺をさらに混乱させるようなことを平然と言ってのけた。
それも、長門ではなくこの俺に向かって。

「髭生やしたあんたもなかなかのもんじゃない。サングラスも似合うようになったわね」

俺は呻きとも言えない声を上げた。ハルヒは共に人生を歩んでいる俺とは別の、この俺の存在を当然知っているかのような口ぶりだった。
ハルヒはさらに絶句している俺を気遣うように、
「あの時も言ったけど、あんたのおかげで本当に幸せだった。ううん、もちろん今も幸せよ。あなたらしい人影を見かけたから……。あの時はお別れの言葉になっちゃったから……。どう
してももう一度伝えたくて」
「ハルヒ……」
俺はそう言うのが精一杯だった。
「病院のベッドの上で、ずっと夢を見てたわ。あんたがあたしを助けてくれる夢。あたしがあんたを助ける夢」
やっぱりあれはお前の仕業だったんだな。俺はお前を助けるつもりで、実はずっと助けられてたんだな。
あらためて思った。やっぱりお前はすげー奴だ。時間どころか次元まで越えて俺のことを見守ってくれていたんだからな。
「有希」
ハルヒに呼びかけられた長門が、緊張の面持ちでハルヒを見た。
ハルヒは柔らかく目を細め、長門に微笑みを投げかけた。
それは俺が今まで見たハルヒの表情の中で、最も穏やかで最も深い、そんな微笑みだった。
「ずっと有希のこと心配だったけど、もう安心ね。幸せになるのよ」
長門の目がわずかに見開かれた。その瞳が潤んでいた。
「こっちのキョンをよろしくね」
長門は緩やかに首を傾け、
「……ありがとう」
そしてハルヒに微笑みを返していた。
改変された世界の、あんな贋物の微笑じゃない。本当の長門の、本当の感情が生み出した、偽りのない本当の微笑だ。
「時間がないから行くわ。もう一人のあんたを待たせてるの」
歩き出したハルヒは思い出したように振り返り、人差し指を突き立てた。
「キョン、しっかりやんなさいよ。有希を泣かすようなことしちゃだめよ!」
ハルヒはそう言い残し、図書館の外へと走り去っていった。

それにしても、別れ際もさっぱりとしたもんだ。それでこそハルヒらしい。俺は以前と変わらないハルヒに自然と顔が綻んだ。
ハルヒが見えなくなるまでその後姿を見送った俺たちは、顔を見合わせ、お互いの唇を重ねた。
ハルヒのおかげで、踏ん切りがついた。
ハルヒはもう一人の俺とともに、朝比奈さんが言ったように平穏な人生を送る。そして俺は長門とともにさらなる波乱万丈の人生を歩む。
それでいい。これから先のことは、これから考えればいいさ。

――そうだろ、ハルヒ?

こうして、俺たちはこの時空に別れを告げた。
俺はまだ朝比奈さんに会いに行く約束は果たしていない。
だが俺は確信していた。いずれまた遠い未来で彼女に会う日がきっとやってくると。そして彼女に会いに行くべき時が今でないことを。
俺たちにはまだ、これからやらなければならないことが残されている。



エ ピ ロ ー グ


あれから何年経っただろう。それは数えてしまえば解ることなのだが、その行為はもはや俺にとってあまり意味のあることではなかった。
長かった。だがそれも今日で終わりだ。
長門は情報統合思念体と決別したことにより、普通の人間として生きることになった。
もちろん人間と異なる点は残っていたが。長門は歳を取らない。長門にはもともと老化という機能は存在していないからな。
そして、それは俺も同じだった。俺は不老不死という、普通の人間とは遠くかけ離れた存在となっていた。
それはなぜか?
朝比奈さんは言った。オーパーツの起動には大きな代償を伴うと。俺はその代償がハルヒと自分の居場所を失うことだと思っていた。だが代償はそれ以上に大きかった。
俺は長門や朝倉が言ったように、ハルヒを蘇らせることにより情報統合思念体から常に狙われる立場となった。
そしてそれは俺だけじゃなく、地球そのものが情報統合思念体と敵対関係になることを意味していた。
俺は、あらゆる未来・過去から、地球を情報統合思念体から守るためにオーパーツを起動させ続ける、いわば依り代とならなくてはならず、その引き換えに俺はオーパーツにより不老不死を手に入れたのだ。長門が言うには、俺とオーパーツは起動の瞬間からお互いを補完しあい、言わば同化している状態らしい。
オーパーツが起動し続けている限り、情報統合思念体は地球に対して迂闊に手出し出来ない。
長門によれば、あの時情報統合思念体の老人に対して放出したオーパーツの力は、あれでもまだ一部に過ぎないのだという。
俺たちは元の時代から四十年後の未来に飛び、STC理論を与えた少年に会った。
既に後の未来人組織の前身となる時間平面理論研究チームの長となっていた彼は、俺との再会を心から喜んでくれた。そして俺たちは研究のサポート要員としてチームに迎えられることになった。

少年以外には秘密だったとはいえ実際に時間移動が出来るという希少なサンプルである俺に加えて、長年の読書により得られた幅広い知識を持つ長門は、研究には欠かせない貴重な存在だった。
俺たち二人は歳をとることもなく研究に従事し、必要に応じて組織を外敵から守るためのさまざまな活動を続けた。
俺は昔、朝比奈さんと長門の姿を見て、未来人と宇宙人がタッグを組めば怖ものなしだなと思ったことがあったが、今ではそれに加えて不老不死というおまけまでついている。俺と長門のコンビはまさに地球上で最強の存在であり、組織にとって障壁となるあらゆる難題を解決し続けた。
そんな俺たちが組織の中で重要な地位につくのには、それほど時間は必要なかった。


俺が今いるのは未来人組織の本部であり、この部屋はその中でも出入りが極めて厳密に制限されるエリアにある。
「連れてきた」
部屋のドアが開き、長門が言った。長門の横には、この部屋に来る時にはいつも極度の緊張が隠せない様子の、未来人組織メンバーの一人がいた。
そそっかしくて、うっかり者で、でも誰よりも努力家で、今やその地位は組織の中でも上から数えた方が早いという女性。
それでいて、未だに長門によく小言を言われている妙齢の美女。
そう、それは朝比奈みくるだった。
俺の時代にいた朝比奈さんが長門に対していつまでも苦手意識を持っていたのは、つまりはこういう理由だ。何しろ俺の知る限りでは、歴代のTPDD保有者の中でも、最も頻繁に長門にお叱りを受けているからな。
「預言者から話すことがある」
長門の言葉を聞いてビクッとする朝比奈さん。そして、既にお解かりだとは思うが、預言者とは俺のことだ。

「ご苦労だったな、朝比奈みくる。今日は私から礼を言うために君をここに呼んだ。そして君に最後の指令を与えるために」
おずおずとこちらを見上げる朝比奈さん。
「今まで君は本当によくやってくれた。ありがとう」
「とんでもありません。お褒めに預かり光栄です」
「今のは預言者としての礼だ」
キョトンとしている朝比奈さんに、俺はあらためて言った。
「そして、これは俺からの礼」
外套衣を取り、素顔を見せて俺は言った。
「本当に今までありがとうございました。やっとこの言葉が言えましたよ朝比奈さん」
朝比奈さんの表情は、はじめ凝然とし、次に呆然とし、最後に愕然となった。
「キョン君?!」
ゴージャスバージョンの朝比奈さんの驚いた顔というのもなかなかお目にはかかれない。そしてそれは幼い頃の朝比奈さんを思い起こさせた。
「私からも礼を言う。ありがとう」
そう言った長門の方を振り向き、朝比奈さんは別の意味で驚愕していた。
長門が朝比奈さんに微笑みかけていたからだ。
無理もない。こいつは未だに俺以外の人間に無表情以外の表情を見せるなんてことはほとんどしないからな。
「でも、キョン君は無事に歴史を修正して、それから涼宮さんと平穏に生涯を過ごしたはず……」
「表向きはそうなってますが……結局、歴史を改変した方の俺、つまりこの俺は元の時間の流れに戻れなくなりまして。こうやって組織にお世話になってる身です。いや今は色々と世話も
してるから、お互い様といったところですか」
「そんな……」
「俺が組織で立ち回るのには、俺は元の時間軸に戻りハルヒとの生涯を終えた、としておくほうが好都合でして。とはいえあの閉ざされた過去のことは今となっては俺と長門と朝比奈さんの三人しか知らないことですがね」
「でも、キョン君と長門さんが結ばれることになったのなら、それはそれでよかったのかも……」
俺も今ではそう思ってますよ。

「正直に言うと、俺がまだ高校生だった頃、朝比奈さんが俺や幼い朝比奈さんを都合よく使って歴史に介入することに不満を持っていました。だからそのことも含めて朝比奈さんには謝りたいと思ってました。結局のところ、それをさせていたのは全て俺自身だったんです。俺が預言者として朝比奈さんに指示し、色々と過去に介入してもらったのは、全て俺が歴史改変の際に起こした歴史のズレの補正だったんです。俺の取った行動でなんとか歴史の流れの大筋を戻すことには成功しましたが、それはあくまでも暫定措置でしかなくて、最終的に朝比奈さんの力を借りてそれを補正するしかなかったんです」
「……じゃあ、あの七夕はどうやって?」
「あれは俺が妹を担いでハルヒに会いに行きました。ちなみに俺の妹の九代目の子孫が朝比奈さんですよ」
「えええ?」
「つまり俺と朝比奈さんは遠縁の親戚です。それを知るためにはずいぶん苦労しましたがね」
朝比奈さんは驚きつつも、思い出したように、
「じゃあ、あの時……私が自殺するのを止めてくれた人ってもしかして……」
「俺です」
「ええっ、そんな……私何も知らなかった……。あの時は本当にありがとうございました……」
「あれは俺にとっては既定事項です。だから気にしないでください」
半ベソ状態の朝比奈さんをなだめる。
「じゃあ……七夕のときに幼い頃の私からTPDDを奪わなければいけなかったのはなぜ?」
その問いには長門が答えた。
「それは私の希望。時間凍結した二人を見守ることは私の中に感情が芽生える最初のきっかけになった。あれは必要なこと」
「では始祖の救出はどうやって?」
始祖というのはSTC理論の研究を最初に始めた人物。つまりあの少年のことだ。
「機関を使って自作自演しました。今思い出しても泣けてきますよ。ああ、俺が古泉の機関の創設者だってことは知ってましたっけ?」
「えええっ?」
言ってなかったかな?

「じゃあ始祖に亀を与えたのは?」
「それも俺がやりました。亀は鶴屋さんの池にいたのを拝借しましたがね」
「リーダーの先祖を病院に送ったのは?」
ちなみにリーダーと言うのは、俺が色々とお世話になった男性のことだ。今では表向きの組織のナンバーワンの位置にいる。
「それも俺がやりましたよ。そのおかげで、俺はリーダーに辿りつくことができました」
「はあぁ」
「朝比奈さん、あなたは少し、いや、かなり粗忽なところはありましたけど、時間駐在員、時空補正員としての優秀さは俺が保証します。本当によくやってくれました」
「ありがとう、キョン君。あなたにそう言われると少し複雑な気分だけど……」
そう言って朝比奈さんはわずかに微笑みを見せた。
「あっ、そう言えば。鶴屋さんの山で岩を動かしたのも何か理由があったんですか?」
あの指令に関しては詳細を伝えていなかったからな。高校生の頃の俺と同じく、朝比奈さんにとってもずっと謎だったに違いない。
「それはこれから話します。そしてそれが俺からの最後のお願いと関係しています」
俺は例のオーパーツを朝比奈さんに取り出して見せた。
そして、同時に長門もオーパーツを懐から取り出した。
「これは……一体何なのですか?」
「これがあの岩の下に埋まっていたものです。あの指令は過去の俺にこの装置の存在を知らせるためにお願いしたんです」
「これは歴史の流れを正常化させるために必要なもの。情報統合思念体への対抗措置であり思念体にとっての自律進化への鍵」
と長門が注釈を入れた。
「でも、どうして二つあるんですか」
「俺が持っているものは過去の俺と長門が未来から引き継いだもの、そして長門が持っているものは今の俺と長門が過去に引き継ぐもの。それが今日完成したんですよ」
長門は朝比奈さんにオーパーツを手渡した。
「それに朝比奈さんのメッセージを入れてくれませんか。文言はこうです。手を出してもらえますか?」

朝比奈さんはが右手を差し出し、俺はその甲に指を触れた。
俺の頭の中に今も残るあの時のメッセージに、今の俺の想いを込めて。

『お前はこの装置によってハルヒ復活の可能性を得ることが出来る。だが、それはお前にとって大きな代償を伴うことになる。お前はこの装置を起動するか、そうしないかを選択することが出来る。それによって未来は大きく変わる。この選択にはお前とハルヒの運命だけでなく、地球の運命が懸かっていると言っても過言ではない。これからの未来は誰にも解らない。だが、お前にはそれを選ぶ権利がある。お前にとって望ましくない未来になるかもしれない。あるいは未来人にとって望ましくない未来になるかもしれない。俺たちは未来をお前の手に委ねることに決めた。お前がお前自身で選ぶ未来だ』

朝比奈さんは言葉の意味を理解したようだった。朝比奈さんの瞳に涙が浮かんでいた。
このメッセージは、朝比奈さんの言葉で語られることになるが、実は今の俺が過去の俺に向けたメッセージだったのだ。
俺は、今の自分の立場に満足している。だってそうだろ。普通の人間では決して得ることのない面白い体験を俺はずっと続けてきた。これに不満を抱くなんてとんでもないことだ。
だが、それにはハルヒと離れ離れになり、人間であることを捨て地球を守り続けるという大きな代償があった。
当然ながら、当時の俺はこんなことを知る由もなかった。だが、それを選んだのは誰あろう、俺自身なんだ。
もしもう一度歴史が繰り返されて、過去の俺がオーパーツ起動の選択を託されたとき、そいつがそれを望まないのであればそれは仕方のないことなのさ。それは過去の俺が選ぶことであって、今の俺が強制することでは決してない。
手元のオーパーツを握りながら、不意に鶴屋さんの言葉を思い出した。
「キョン君はどっちだと思う? 未来人か宇宙人だったら、どっちがいい?」
長門の姿を眺めながら俺は苦笑した。俺が選んだ結論はどうやら両方だったみたいですよ、鶴屋さん。

「それでは、本当に最後のお願いです。これを着て、俺と一緒に時間移動してくれませんか?」
俺は脇に置いてあったケースから朝比奈さんに衣装を差し出した。朝比奈さんのコスプレもこれで本当に見納めだな。
「これは一体……?」
「俺は隣の部屋に行ってます。衣装だけじゃなくて髪も結わないといけないので時間がかかりますが、まあのんびりとやってください。あ、着付けとかは全部長門がやってくれますからご心配なく」
ドアにもたれかかりながら俺は文芸部部室の扉越しに朝比奈さんの着替えを待っていた頃を思い出した。遠い記憶。ああ、思い出に耽ってる場合じゃない。俺も着替えなくちゃいけないんだった。

着替えは一時間ほどで終了した。
「似合ってますよ、朝比奈さん」
「これは……初詣のときの衣装に似てますが?」
「これから飛ぶ時代の一般的な服装ですよ。では行きましょうか。かなり長距離の移動になります。肩の力を抜いてリラックスして、目を閉じて」
このセリフを朝比奈さん相手に言うことになるとは思わなかった。
右手に長門、左手に朝比奈さんのまさに両手に花状態で、少し照れながら俺は時空間座標を念じた。
「行きます」
これがおそらく朝比奈さんにとって最長の時間移動になるだろう。
体全体が揺れた。
俺たちが着いたのは海路の拠点であり、また陸路としても主要街道が交わっているため、商店や宿場が所狭しと並んでいる町。特にこの時代では酒造りが盛んだ。
「ここは……どこですか?」
「俺たちが住んでた町ですよ。それよりもずっと過去ですが。正確には元禄十五年十一月三日の午後四時です」
「えっ? でも元禄って確か……江戸時代じゃ?」
「その通りです。さっきの時空からおよそ五百年前ですね」
「ええええっ?」

朝比奈さんは目をまん丸にして、
「一体どうやって涼宮さんの次元断層を……」
「詳しくは解りませんが、どうも俺だけがそれを突破出来るみたいです。ハルヒが作ってくれた抜け穴ですかね」
「ふええっ」
情報統合思念体の親玉でさえ出来なかったことだ。朝比奈さんが驚くのも無理はない。
朝比奈さんの姿は華やいだ町の中にあっても美しさが際立っていた。通りがかる誰もが朝比奈さんに視線を奪われていた。
丸髷に櫛、かんざし。振袖。さすがは朝比奈さん、完璧なまでに着こなしている。俺はこの日の朝比奈さんのために、この時代に何度か足を運び特別にあつらえたのだ。
お城の姫君がこっそり抜け出して町に下りてきたかのような、まさにそういった風情だった。
そして、朝比奈さんと比べて何の遜色もないくらい、長門の小袖姿も実に可憐だった。
「でも、ここで一体何を?」
「さっきのオーパーツを過去に引き継ぐために来ました」
鶴屋家を見つけるのは極めて容易だった。それはこの町の中でも最大の酒蔵だった。
鶴屋さんのはるか先代にあたる、この時代の当主である鶴屋房右衛門は、機関設立に多大な協力をしてくれた俺の恩人である当主にとてもよく似ていた。
俺は、自分は鶴屋家に大変世話になった者でこれはそのせめてものお礼です、と言いオーパーツを鶴屋房右衛門に手渡した。
彼が地図とともにこれをあの岩の下に埋めてくれることを祈って。
「結局、あれは何だったんですか?」
その問いには長門が回答した。
あのオーパーツには、俺とハルヒ、長門、古泉、そして朝比奈さんの、つまりSOS団にまつわる物語が情報統合思念体に理解出来る概念で記されている。
ハルヒの情報爆発に始まり、今日ここでオーパーツを鶴屋房右衛門に託すまでの。
そこには人間の持つさまざまな感情が凝縮されている。
俺のハルヒと長門への愛が詰まっている。朝比奈さんや古泉や鶴屋さんとの思い出が詰まっている。そして長門の俺への愛も。

過去や未来に縛られた日々はこれで完全に終わった。
そして、俺のモノローグもようやく終了することになる。
夕暮れ刻。宿場に囲まれた通りの真ん中に太陽が落ちている。空は地平付近の朱から上空にかけて紫、そして俺が生きたいかなる時代でも決して見られなかった、無数の星が散りばめられた漆黒へと変化している。
これから先の未来のことは誰にも解らない。長門にだって、朝比奈さんにだって。
だが、それでいいんだ。誰かに一方的に決められて、それをなぞるだけの未来なぞ存在してたまるものか。
『未来における自分の責任は現在の自分が負うべき』
天空に広がる秋空の見事なグラデーションに魅入られながら、俺はいつかの長門の言葉を思い出していた。
『あなたもそう。それが』
振り向いた先に、夕日に赤く染まる長門の姿があった。
長門は、俺の想いを見透かしたように、ゆっくりと、柔らかに微笑んだ。

「わたしたちの未来」



―― 了 ――









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